出雲 大社 広島 分 祠。 5cq19 出雲大社広島分祠

出雲大社広島分祠の御朱印やお守りは?お祓いに厄払いのご利益はあるのか

出雲 大社 広島 分 祠

こんばんは!よつ葉です。 先日、広島県福山市野上町にある、出雲大社 福山分祠 に行ってきました。 お察しのとおり、島根県出雲市にある出雲大社の分祠になります。 出雲大社 福山分祠 以下が駐車場から見える景色ですが、立派なたたずまいです。 平日の夕方だったためか、人は一人もいませんでした。 近づいていくと、出雲大社の象徴であるしめ縄がありました。 近くで見ると、分祠でも十分立派で、圧巻です。 置いてあるお守りはこちら。 結構たくさんありました。 手水です。 龍の口から水が出たり止まったりしていました。 また手水の横(敷地内)には、龍蛇神社という小さな神社がありました。 横には社務所?がありました。 近くを散歩してみる ついでに近隣を少し散策してみました。 ギャラリーリトルスカイ というギャラリーがありました。 見た目は普通の家だったのですが、家でやられているのかな? さらに散策したのですが、近くに拘置支所がありました。 長く福山に住んでいるのですが、全然知りませんでした・・・笑 まとめ 出雲大社 福山分祠は、出雲大社というだけあってしめ縄がとても立派でした。 平日の夕方だったので人が居なかったですが、今度は土日に行ってみようと思います。 ちなみに、ここで結婚式を行う方も多いようですよ。 駐車場もあるので、参拝しやすかったです。 今度行くときは御朱印帳を持っていこうと思います。 みなさんも一度行かれてみてはいかがでしょうか。 出雲大社 福山分祠 〒720-0815 広島県福山市野上町3-8-12 お付き合いいただきありがとうございました。 以上、よつ葉でした。 fourleaf4.

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出雲大社広島分祠 : ☆★い~・いめ~じv(^^)v★☆

出雲 大社 広島 分 祠

今朝、思い立って出雲大社の広島分祠にお参りに行ってきました。 昨年の2月に、クライアントさんからお聞きして、 何度かお参りさせていただきました。 ここの分祠長さんは、 いろんな方のお悩みなどにもお応えしてくださる機会をもうけ、 「お伺い」という日を不定期に設けてらっしゃいます。 私たち夫婦も何度かお世話になりました。 いろんなお言葉やメッセージ、アドバイスなどをいただきました。 出雲大社は 島根県出雲市にあるのが当然有名ですが、 全国に分祠があるようです。 特に広い敷地ではありませんが、 山間にあり、とても心地よい空間です。 最近、 自宅近くの氏神様や、 院の近くの氏神様にお参りさせていただく機会が多く、 昨日の夕方くらいに、 出雲さんにもいってみたいなぁ。。 とふっと思い、 今朝一番に寄らせていただきました。 やはり、癒されますねぇ。。。 神社というところは。 所々で写真を撮らせて頂いたので、 ご紹介しますね(^^) まずは入口にそびえ立つ、 大きな鳥居です。 写真でもお分かりいただけると思いますが、 とってもでかいです!! この鳥居からも素晴らしいエネルギーが出てます。 じかに触れると、 手がじーんときます。。 鳥居をくぐって階段をあがり、 本殿が右側に向かって進んだところにあります。 大鳥居の正面に本殿があるのではないのです。 本殿へのお参りの後は、 おにわふみ・・ 右回りで本殿をぐるっと周り、 奥にある社にお参りします。 おにわふみを終えて、 本殿正面に行く前に、 とても見晴らしがいい場所があります。 今日は曇り空だったので、 霞がかかったような感じですが、 市内方向が、遠くの方まで見えます。 おにわふみの終わり、本殿横にはこんな石碑。 一如の祈りの石碑です。 入口のおきな鳥居の横にもこんな石碑が。 空間のエネルギーがとても心地よいので、 お花もきれいに咲いてました テッセンかな。。 あじさいも・・ しっかりエネルギー補給させていただきました。 帰りの車の中で、 体がポカポカと温かくなってきました。 歓迎していただけたのかな。。。 ありがとうございます。 また、元気をたくさん頂きに、 お参りに来させていただこうと思います。。

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出雲大社広島分祠は車で行ける?アクセス方法や駐車場の有無も!

出雲 大社 広島 分 祠

名称 [ ] 古代より 杵築大社(きずきたいしゃ、きずきのおおやしろ)と呼ばれていたが、(4年)に出雲大社と改称した。 正式名称は出雲大社サイトには「 いづもおおやしろ」 、出雲大社東京分祠サイトには「 いずもおおやしろ」とある (前者は新旧仮名遣いが混在、後者は新仮名遣い)。 一般的には「 いづもたいしゃ」と読まれており 、複数の辞書・事典でも見出しの読みを「 いずもたいしゃ」としている。 島根県大百科事典編集委員会『島根県大百科事典』では出雲大社の項目は正式名称の「 いずもおおやしろ」として掲載する一方 、出雲大社本殿(いずもたいしゃほんでん)など登録文化財の項目については登録名に従った読みで掲載している。 古文書に見える社名は次のとおり。 大社杵築大神宮(『国花万葉記』)• 杵築大社(『』)• 出雲国大社(『享保集成総論』)• 日本大社(真言宗正林寺蔵版木)• 天日栖宮(『出雲国風土記』• 出雲石 石同 之曽宮(『古事記』)。 歴史 [ ] 出雲大社はいわゆるの事情のもとで創建された。 (貞観9年)には正二位に叙せられとは別に出雲国一宮と称せられるようになった。 中世には12郷7浦を領したが、により減じられ5郷2浦となった。 1871年(明治4年)に官幣大社に列格の後、にとなった。 創建 [ ] 出雲大社の創建については、などにその伝承が語られている。 以下はその主なものである。 大国主神はに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「 天之御舎(あめのみあらか)」を造った。 (『古事記』)• は国譲りに応じた大己貴命に、「汝の住処となる「 天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう」と述べた。 (『日本書紀』)• 所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。 (『出雲国風土記』杵築郷)• 神魂命が「 天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた。 (『』)• 60年7月、が「武日照命(『日本書紀』による。 『古事記』では(の子)とされる)が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って献上を命じ、(タケモロスミ)を遣わしたところ、(いいいりね)が、当時の当主で兄のに無断で出雲の神宝を献上。 出雲振根は飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺されている。 (『日本書紀』)• の(ほむちわけ)は生まれながらにであった。 占いによってそれは出雲の大神の祟りであることが分かり、と菟上王を連れて出雲に遣わして大神を拝ませると、本牟智和気はしゃべれるようになった。 奏上をうけた天皇は大変喜び、菟上王を再び出雲に遣わして、「神宮」を造らせた。 (『古事記』)• (5年)、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。 (『日本書紀』) 以上のように、伝承の内容や大社の呼び名は様々である。 共通して言えることは、(または天皇)の命によって、である大国主神の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえる。 また、出雲大社の社伝においては、垂仁天皇の時が第1回、斉明天皇の時が第2回の造営とされている。 祭神の変化 [ ] 出雲国造新任時に朝廷で奏上する出雲国造神賀詞では「大穴持命(大国主大神)」「杵築宮(出雲大社)に静まり坐しき」と記載があるので、この儀式を行っていた前期までの祭神は大国主神であった。 やがて、の影響下でからのと関係が深まり、鰐淵寺は杵築大社(出雲大社)のも兼ねた。 鰐淵寺を中心とした縁起(中世出雲神話)では、出雲の・の神をとしていた (本来国引きは)ことから、中世のある時期からまで祭神が素戔嗚尊 であった。 「当社大明神は天照大御神之弟、素戔嗚尊也。 八又の大蛇を割き、凶徒を射ち国域の太平を築く。 」と杵築大社(出雲大社)の由来が記され、(6年)が寄進した銅鳥居に刻まれた銘文には「素戔嗚尊者雲陽大社神也」と記された。 さらには、鰐淵寺のが経所でを行い、社殿ではもした。 また、初期にはがと杵築大社(出雲大社)の運営管理に関する交渉を実施していた。 ところが、杵築大社(出雲大社)内はやが立ち並んでが衰微した。 このため(7年)のに伴う大造営の時、出雲国造家が・を主張して寺社奉行に認められた。 仏堂や仏塔は移築・撤去され、は破却された。 これに併せて祭神はから、『古事記』『日本書紀』などの記述に沿って大国主大神に復した。 祭神 [ ] 大国主大神 [ ] 祭神は(おおくにぬしのおおかみ)。 ただし『出雲国風土記』ではこの名ではなく大穴持命または所造天下大神大穴持命となっている。 (元年)に「天下無双之大廈、国中第一之霊神」と記された。 神在月()には全国から八百万のが集まり 神議が行われる (神在祭 旧暦10月11日 - 17日)。 出雲へ行かず村や家に留まる田の神・家の神的な性格を持つ留守神(等)も存在しているので、全ての神が出雲に出向くわけではない。 そのような神集 への信仰から、江戸時代以降は文学 にも出雲の縁結びの神様として現れるほどに、全国的な信仰を集めるようになった。 祭神の別名 [ ]• 大穴牟遅神(おおあなむちのかみ)『』での表記• 杵築神(きづきのかみ)『』での表記• 国造神(くにつくらししかみ)『』での表記• 大穴六道尊 おおあなむちのみこと)『風土記』での表記• 大国魂神(おおくにたまのかみ)『日本総国風土記』での表記• 所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)• 大地主神(おおとこぬしのかみ)• 大国魂神 『』での表記• 大穴持命(おおあなもちのみこと)『』『』『風土記』での表記• 宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)• 廣矛魂神(ひろほこみたまのかみ)• 大国玉神(おおくにたまのかみ)『』での表記• (やまとおおものぬしくしかみたまのかみ)• 国作之大神(くにつくらしのおおかみ)• 国作坐志大穴持命(くにつくりまししおおむなちのみこと)『出雲国造神賀詞』での名。 国堅大神(くにかためまししおおかみ)• 国占神(くにしめたまいしかみ)• 出雲大神(いずものおおかみ)• 芦原志拳呼命 『』での表記• 大汝命(おおなむぢのみこと)• 兵主神(ひょうずのかみ)• 農耕祖神(たづくりのおやのかみ)• 幽冥事知食大神(かくりごとしろしめすおおかみ)• 縁結神(えんむすびのかみ)、福神(ふくのかみ)、天下地主神(あめのしたとこぬしのかみ)、大国作神(おおくにつくらししかみ) 出雲や出雲大社での神名。 祭祀 [ ] 創建以来、の子のを祖とする家が祭祀を担ってきたとされるが、本来出雲国造家は東出雲のの社家であった。 翌年、神社本庁より身分特級を拝受している。 また、宮司の正服の紋様は神社本庁の定める黒綾文輪なし裏同色平絹ではなく、黒綾にご神紋であるの文様を練り込んだものであり他に類を見ない。 現在も、の者といえども本殿内までは入れないしきたりを守り続けている。 約60年に一度行われている本殿の建て替えに際して、神体が仮殿に遷御された後に、本殿の内部及び大屋根が公開されることがある。 古代の本殿の模型 出雲国造家 [ ] 出雲国造は、天照大御神の第二御子の天穂日命 あめのほひのみこと の神裔である。 第十二代鵜濡淳命より祭祀以外に出雲国の政治も兼ねる事になる。 第十三代襲髄命()はの祖と称えられる。 第十七代宮向国造の時に出雲臣姓を賜る。 第二十五代廣嶋国造は『』を編纂。 第三十一代千国国造の時代から、地方政治の面から退き、祭祀のみ携わる事になる。 これより国造新任時や遷都時には朝廷へ参向し、天皇の大前にて神賀詞を奏上する。 第五十三代孝時国造は後醍醐天皇に神剣一振献上。 千家家と北島家 [ ] 出雲大社の祭祀者である家は、の康永年間に千家家と北島家の2家に分裂した。 その祭事はまでは両家が二分して行っていたが、明治以降は千家家が執り行っている。 千家家() 1872年(明治5年)に出雲大社宮司のが出雲大社崇敬講社を結成。 1882年(明治15年)に政府の方針で神職教導職の兼務が認められなくなったため、千家尊福は宮司職を弟の千家尊紀に譲って教化活動に専念。 出雲大社教院は出雲大社そのものから分離しての一つとなった。 第二次世界大戦後、神社が国の管理を離れたことから再び出雲大社と密着する形に至った。 北島家() 1872年(明治5年)に北島脩孝が千家尊福とともに出雲大社崇敬講社を結成。 1882年(明治15年)に出雲教会を設立した。 第二次世界大戦後、1952年に宗教法人法に基づく独立した宗教法人出雲教となった。 以上のように大国主大神を主祭神とする宗教団体として、千家家が出雲大社教、北島家が出雲教を主宰している。 (26年)4月に出雲大社との宗教法人出雲大社教は一体化され、出雲大社の職員は出雲大社教の職員を兼務し、出雲大社宮司は出雲国造として出雲大社教を総攬し、出雲大社教の教務本庁は出雲大社の教務部として活動している。 施設 [ ] ( を基に作成) 本殿 [ ] 玉垣、瑞垣(廻廊)、荒垣の三重の垣根に厳重に守護されている。 本殿内北西には御客座五神(、、、、)が祀られている。 大国主大神の御神座は本殿内北東にあり、正面である南側ではなく西側を向いている。 これは本殿が古代のとほぼ同じ構造になっているため、高床式住居における入口と最上席の配置と向きの関係から、御神座は西側を向くことになるためと考えられる。 天井には7つの雲の絵が描かれている。 現在の本殿は1744年(元年)に建てられたもので、高さは8(およそ24)と、神社としては破格の大きさである。 が『』に引いたところによれば、かつての本殿は現状の倍ほどもあり、()には16丈 48m 、さらに(神代の後、平安より前)には32丈(およそ96m)であった、という伝承があるとされる。 同じ出典にある、「金輪造営図」と併せて想定される姿は大変不思議なもので、空に向かって延びた何本もの柱の上に社が建つというものになる。 この説については賛否両論あり、肯定する意見としては、平安時代にによって作られた『』でに歌われていることが論拠に挙げられる。 これは「雲太、和二、京三=出雲太郎、大和次郎、京三郎」というもので、「雲太、和二、京三。 今案、雲太謂出雲国城築明神神殿。 和二謂大和国東大寺大仏殿。 京三謂大極殿、八省。 」を元にしている。 ただし異論として。 その後に続く数え歌を考慮すると、高さの順を表したものではなく、神社(神)、寺院(仏)、住宅(人)の順を著しているとの説や、複数の記録により、複数回倒壊していることがわかっていること(『』『』『千家家古文書』『』『北島家文書』などの記述によれば、平安中期から初めまでの約200年間に7度も倒壊している)といった傍証が挙げられている。 上古32丈についても、山に建てたものについて、その標高を述べたものと附会すれば、不自然では無いという意見もある。 高層建築が必要とされたのはの祭祀と関係があるとする説もある。 一方で、前述したように明確な文献が『玉勝間』と江戸時代まで下ること、証拠とされているものがいずれも傍証にとどまること、32丈説や後述するプロジェクトなどで想定している「山」が、そもそもただの山ではなくであり工事が入ることなどめっそうもないといった点が否定要素である。 建築学的な可能性としては、とによるプロジェクトにより検討され 、書籍『古代出雲大社の復元』(、初版1989年)として出版されている。 2000年(平成12年)、地下祭礼準備室の建設に伴う事前調査に際し、からはなどの他、巨大な(1本約1. 4mの柱を3本束ねたもの)が発掘された。 古代社殿の柱ではと騒がれ、16丈説があたかも確認された事実であるかのごとく報道されたりもした。 結局、中世の遺構で現在とほぼ同大平面であり、柱の分析や出土品からも1248年(2年)造営の本殿である可能性が高いと分析されている。 ただし発見されたものが古代の本殿ではなくとも、16丈であったことの証明になる可能性があると書かれた教科書や書籍もある。 2017年(平成29年)にリニューアルオープンした展示施設「神祜殿」では、出土した柱や、高い位置にある本殿と地上を長い階段でつないだ古代の姿の想像模型が展示されている。 2008年(平成20年)の「仮殿遷座祭」以降、本殿の屋根等の大改修が行われており、2013年(平成25年)5月にはを仮殿から改修が完了した本殿へ再びする「本殿遷座祭」が行われた( 平成の大遷宮)。 出雲大社の遷宮は概ね60 - 70年毎に行われている。 本殿瑞垣内• 大神大后神社(御向社、みむかいのやしろ) - 式内名神大社(同社坐大神大后神社)。 大国主の正后・を祀る。 伊能知比賣神社(天前社、あまさきのやしろ) - 式内社(同社坐伊能知比賣神社)。 大国主が亡くなったときに蘇生を行ったを祀る。 神魂御子神社(筑紫社、つくしのやしろ) - 式内社(同社坐神魂御子神社)。 大国主の妻での一柱、を祀る。 門神社(もんじんのやしろ) - 廻廊八足門内の両側にあって本殿を守護する宇治神(東)・久多美神(西)を祀る。 本殿瑞垣外• 出雲神社(素鵞社、そがのやしろ) - 式内社。 父(または祖先)のを祀る。 本殿の真後ろ、八雲山との間に唯一鎮座する社。 釜社(かまのやしろ) - 素戔嗚尊の子のを祀る。 氏社(うじのやしろ) - 2つあって、出雲国造家祖神の天穂日命(北)と17代の祖で出雲氏初代の宮向宿彌(南)を祀る。 御神座は本殿のある東を向いて、西を向いた主祭神に対面するようにしつらえてある。 十九社(じゅうくしゃ) - 東西に2つあって八百万神(やおよろずのかみ)を祀る。 神在祭の際、神々の宿舎となる。 荒垣外摂末社 [ ]• 神魂伊能知奴志神社(命主社、いのちぬしのやしろ) - 式内社。 を祀る。 (出雲市大社町杵築東182)• 阿須伎神社(阿式社、あじきのやしろ) - 式内社。 子のを祀る。 (出雲市大社町遥堪1473)• 大穴持御子神社(三歳社、みとせのやしろ) - 式内社。 子の・高比賣命(古事記では)と素戔嗚尊の孫のを祀る。 (出雲市大社町杵築東)• 大穴持御子玉江神社(乙見社、おとみのやしろ) - 式内社。 子の下照比賣命を祀る。 (出雲市大社町修理免字向地920)• 大穴持伊那西波岐神社(いなせはぎのかみのやしろ) - 式内社。 天穂日命の子で、国譲りの際に事代主のもとに使者として向かった稻背脛命(いなせはぎのみこと)を主祭神とし、を配祀する。 (出雲市大社町鷺浦102)• 上宮(かみのみや) - 素戔嗚尊・八百萬神を祀る。 神在祭の際、神々の会議所となる。 (出雲市大社町杵築北)• 下宮(しものみや) - 天照大御神を祀る。 (出雲市大社町杵築北)• 出雲井社(いずもいのやしろ) - 岐神(ふなどのかみ)を祀る。 (出雲市大社町修理免)• 因佐神社(いなさのかみのやしろ) - を祀る。 (出雲市大社町杵築3008)• 湊社(みなとのやしろ) - 櫛八玉神を祀る。 (出雲市大社町中荒木)• 大歳社(おおとしのやしろ) - 素戔嗚尊の子のを祀る。 (出雲市大社町杵築北)• 祓社(はらいのやしろ) - を祀る。 参道大鳥居の東側にあり参拝者が前もって身心を祓い清める社。 (出雲市大社町杵築東195)• 野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ) - 参道大鳥居の西側、神苑相撲場の北西にあり相撲の始祖 第13代出雲國造 襲髄命(かねすねのみこと を祀る。 拝殿 [ ]• の(永正16年)にが造営。 名工のが華、青龍、松竹梅などで豪華絢爛に仕上げ、高く評価されていた。 (昭和28年)5月27日午前1時頃、本殿が72年ぶりの正遷宮奉祝期間中に鑽火殿(さんかでん)から出火、拝殿まで類焼し、姿は消えてしまった。 原因は鑽火殿で餅をつき終わって酒を飲んでいたことから、残り火の不始末だった。 日本全国の崇敬者から寄付金1億円を集めて、復興事業が行われた。 を総裁として、設計を担当したのは神社建築学の福山敏男博士(前述の古代本殿の研究を参照)で、1959年(昭和34年)に完成した。 庁舎 [ ]• 江戸時代の初期建築だったが、上記の1953年(昭和28年)5月27日の火災で延焼し、拝殿とともに姿は消えてしまった。 再建工事は、建築家により1961年(昭和36年)11月に着工され、(昭和38年)5月に竣工。 この年の第15回を受賞した。 その後、コンクリートの亀裂など老朽化が進み、安全上問題があるとして建て替えになることが決まった。 この決定に対しては2016年(平成28年)3月になど4団体が保存を求める要望書を提出。 同年9月にはの諮問機関であるの20世紀遺産国際学術委員会が庁舎に対して危機遺産警告を出し、建て替え計画の中止と、修繕や保存の検討を行うよう要望するなど 波紋が広がった。 庁舎保存を求める建築家らに対し、「コンクリート本体と金属部の劣化が進み、安全性を確保できない」として建替計画が通り、大遷宮事業が終わる2018年(平成30年)度末までに新しい庁舎を立てる方針。 神楽殿 [ ]• 神楽殿 - 拝殿の西側、荒垣外に位置する神楽殿(かぐらでん)は1879年()の創始の際に、本殿とは別に大国主大神を祀ったことに由来する。 正面下に張られた長さ13m、周囲9m、重さ5のは日本トップクラスである。 神楽殿では婚礼なども執り行われている。 国旗掲揚台 - 神楽殿南側には高さ47mの掲揚台があり、日本国内で最大のが掲げられている。 旗の大きさは畳75枚分、重さは約50に達する。 通常は朝掲揚され夕方に奉降されるが悪天候時にはこれを行わない場合がある。 「一月一日」歌碑 - 神楽殿東側には唱歌「」の歌碑が建っている(同唱歌を作詞した千家尊福は出雲大社第80代出雲国造である)。 その他 [ ]• の千家国造館• の北島国造館 文化財 [ ] 社殿群を北東より望む。 高い建物は本殿。 手前の社殿は向かって左が摂社神魂伊能知比売神社本殿、右が摂社大神大后神社本殿 出雲大社の文化財一覧。 国宝 [ ]• 出雲大社本殿(附 内殿1基、棟礼1枚)(建造物) - 江戸時代、1744年(延享元年)の造営。 1900年(33年)に国の重要文化財(当時の特別保護建造物)に指定。 1952年(昭和27年)3月29日にに基づく国宝に指定。 秋野鹿手箱 1合(工芸品) - 鎌倉時代初期の作。 1952年(昭和27年)3月29日指定。 重要文化財(国指定) [ ]• 出雲大社 21棟1基(建造物) - 2004年(16年)指定。 次の社殿21棟および1基を一括指定。 所 2棟• 摂社大神大后(おおかみおおきさき)神社本殿• 摂社神魂御子(かみむすびみこ)神社本殿• 摂社神魂伊能知比売(かみむすびいのちひめ)神社本殿• 摂社門神社本殿 2棟• 八足門(やつあしもん) - 蛙股の「」や流麗な「流水文」などの彫刻はの作と伝えられる。 観祭楼及び廻廊• 西廻廊• 摂社素鵞(そが)社本殿• 摂社氏社本殿 2棟• 末社釜社本殿• 末社十九社本殿 2棟• 銅鳥居 -(6年)の第3代藩主の寄進。 赤絲威肩白(・大袖付)(工芸品) - 室町時代、・頃の作。 1953年(昭和28年)3月31日指定。 太刀 銘光忠(附 糸巻太刀拵) - 鎌倉時代中期の作、豊臣秀頼の寄進。 1909年(明治42年)9月21日指定。 紙本墨書宝剣代(三月十七日)(古文書) - 鎌倉時代、1333年(3年)か。 1935年(昭和10年)4月30日指定。 紙本墨書後醍醐天皇王道再興綸旨(元弘三年三月十四日)(古文書) - 鎌倉時代、1333年(元弘3年)。 1935年(昭和10年)4月30日指定。 紙本墨書宝治二年遷宮儀式注進状(建長元年六月)(古文書) - 鎌倉時代、1249年(宝治2年)。 1935年(昭和10年)4月30日指定。 銅戈1口、硬玉勾玉1顆 神魂伊能知奴志神社境内出土(考古資料) -。 1953年(昭和28年)2月14日指定。 島根県(旧本殿跡)出土品(柱根6点、礎板1点、鉄製品38点(手斧、釘、など)、25点)(考古資料) - 2010年(平成22年)6月29日指定。 銅鳥居 重要美術品(国認定) [ ]• 銅製(工芸品) - 慶長14年銘(1609年)。 1942年(昭和17年)12月16日認定。 選択無形民俗文化財(国選択) [ ]• 出雲の火鑚習俗 - 1975年(昭和50年)12月8日選択。 島根県指定文化財 [ ]• 有形文化財• 出雲大社境外社 6棟(建造物) - 2010年(平成22年)4月16日指定。 神魂伊能知奴志神社本殿• 大穴持御子玉江神社本殿• 大穴持御子神社本殿• 上宮本殿• 上宮拝殿• 出雲井神社本殿• 紙本金地著色舞楽図 6曲1双(絵画) - 1972年(昭和47年)3月31日指定。 鉄砲 清堯作(附 銃箱)(工芸品) - 江戸時代、1612年(17年)の作・寄進。 1963年(昭和38年)7月2日指定。 杵築大社舞楽用具 101点(工芸品) - 江戸時代。 1974年(昭和49年)12月27日指定。 二重亀甲剣花菱紋蒔絵文台、箱 2具(附 外箱1合)(工芸品) - 江戸時代、1667年(寛文7年)の第4代将軍の寄進。 1978年(昭和53年)5月19日指定。 内訳:甲州硯2面、金紋入黒塗軸笠付筆3本、金紋入黒塗軸墨さし2本、金紋入黒塗軸1本、紋入黒塗軸1本、亀甲紋形金銅水滴1箇• 紙本墨書出雲大社文書 237通36冊4帖(古文書) - 1164年(2年)から明治にかけての文書。 1975年(昭和50年)8月12日指定。 出雲市指定文化財 [ ]• 出雲大社参道の松並木 - 1985年(昭和60年)3月6日指定。 天然記念物• 命主社のの大樹 - 1991年(平成3年)3月19日指定。 国の登録有形文化財 [ ]• 彰古館 - 2015年(平成27年)11月27日登録。 宇迦橋大鳥居 - 2015年(平成27年)11月27日登録。 関連文化財 [ ]• 出雲大社并神郷図(絹本著色) - 国の重要文化財(古文書)。 個人所有。 鎌倉時代。 1972年(昭和47年)5月30日指定。 祭事 [ ]• 元旦 - 大饌祭(大御饌祭)• 3日 - 福迎祭• 5日 - 説教始祭• 旧暦元旦 - 福神祭• 旧暦1月28日 - 杓子祭• 2月17日 - 祈穀祭• 4月1日 - 教祖祭• 14日 - (大祭礼) 参向 この祭りにのみ神職は正服を着装し奉仕する• 15日 - 例祭(大祭礼) 二之祭• 16日 - 例祭(大祭礼) 三之祭• 6月1日 - 凉殿祭(神事)• 5日 - 爪剥祭• 6-9日 - 出雲大社教大祭• 14日 - (身逃神事)• 旧暦10月• 10日 - 神迎祭• 11日 - 17日 - 神在祭(御忌祭)• 11月23日 - 献穀祭・古伝新嘗祭• 12月• 15日 - 謝恩祭・勧農祭• 20日 -• 23日 - 祭• 31日 - ・除夜祭 出雲大社の最大の特徴として日供祭が挙げられる。 は通常どの神社でも朝と夕に神様に食事を差し上げる祭りをやるのだが、出雲大社では毎日が自らこれを行う建前である。 大概の神社では当番で一人にて奉仕するものであるが、出雲大社ではあくまでも大国主命のお祭りは天穂日命が行うという神代よりの掟に従い、宮司が7~8人の神職を従えて奉仕するのが基本である。 ただし実際には、しばしば代理の神職により奉仕される。 出雲大社には琴板 こといた という楽がある。 杉板製で、長さ約79センチ、幅約24センチの箱型を呈するもので、裏側に約11センチの穴があいている。 弦は張ってなく、約71センチの柳の枝の撥で打って演奏する。 的射祭、古伝新嘗祭、百番舞、三番舞で奏でられる。 タマフリ、タマシズメの意味などがあるという。 非常に原始的な古いで重要である。 祭事では、出雲笛 いずもぶえ を用いる。 献饌時には「フルヘユラトフルヘ」と吹くが、これは「布瑠倍由良止布瑠倍」であり、に由来する。 出雲笛は竹製桜皮巻の横笛で、出雲地方で作られ、実に神秘的な音色を奏でる。 出雲大社に関する古典抄録 [ ]• 天地の初発-修理固成、美斗能麻具波比、禊祓、三貴子、大国主大神の御神系(『古事記』上)。 御神名(日本書紀神代上)。 御修練-手間山焼石の御難、如矢の御難、蛇の室の御試練、大野の鏑矢の御試練、八田間の大室屋の御試練(『古事記』上)。 幸魂奇魂(『日本書紀』神代上)。 国土経営の大業-国つくりの大任、八十神を平け給ふ(『古事記』上)。 成れる所・成らざる所(『日本書紀』神代上)。 国づくり(『古事記』上、『出雲国風土記』出雲神戸の条、『播磨国風土記』上鴨里の条並びに米更岡の条、『』三五五並びに一二四七)。 療病・禁厭の法を定め給ふ(『日本書紀』神代上、『古語拾遺』)。 を創め給ふ(『伊予国風土記』)。 酒をつくり給う(『播磨国風土記』)。 国避りとの主宰(『古語拾遺』)。 大宮の創建(『出雲国風土記』)。 (『延喜式』)。 交通 [ ]• 最寄駅:・• (JR西日本)から出雲大社連絡所行または日御碕行 (平成29年)4月時点で最寄りの停留所には正門南側にある「正門前」(JR出雲市駅からの運賃は大人500円)とその一つ先の神楽殿西側にある「出雲大社連絡所」(JR出雲市駅からの運賃は大人520円)がある。 標準所要時間は前経由便がJR出雲市駅から出雲大社連絡所バス停まで約36分、前経由便が約27分。 経由便を除く全ての便が大鳥居の下をバスが通過する。 一畑電車・から出雲大社前駅まで乗換で24分(運賃は大人490円)。 休日は一部直通便もあり。 (平成24年)から、一畑バスとの運行する夜行高速バス「」が、渋谷から出雲大社までの運行を開始した。 かつては徒歩15分の位置にJRが存在していたが、(平成2年)のJR廃止によりとなった。 (ただし、ホームや駅の掲示など全て当時のまま残されている) 周辺情報 [ ]• - 人工的に加工されたと推測される石群などが海中にあり、古代の神事の遺跡ではないかという推測もある。 - 出雲大社の祭神 「大国主命」の 「祖神さま(おやがみさま)」にあたる 「素戔嗚尊」や「」を祭る。 日御碕神社・社家の「小野家」は、戦前は出雲大社の千家・北島両家や、一ノ宮の・社家の「金子家」と並び、全国14社家の()の一つに列する格式を有していた。 - 日御碕の突端に立ち、の高さを誇る石造。 - 出雲大社(出雲市大社町)と日御碕を結ぶ海沿いの道。 冬は、海が時化る(しける)と「潮被り」の道となり、安全に「冬の日本海」を体感できるコースとなっている。 晴れると、出雲神話の舞台である、稲佐の浜やが見渡せる。 さらに西方には・の鉱脈を、を遠望できる。 - 出雲大社の前を通る。 (ふみしま) - 「経島繁殖地」は、国の。 日御碕神社のすぐ裏手にあり、冬季はウミネコたちの鳴声や、鄙びた風情の漁港に冬の日本海の風情を体感できるスポットとなっている。 - 出雲大社の東隣にあり、中央ロビーには、2000年(平成12年)にから出土した、古代・中世高層神殿 巨大柱「」(鎌倉時代前期)や、大社東方200mにある、命主社背後の古代祭祀遺跡(真名井遺跡)から出土した・勾玉()も展示されている。 - 出雲大社前の正面鳥居前(勢溜)が本競走のスタート地点となっている。 - 2012年(平成24年)8月31日に出雲大社前にオープンの土産物販売の横丁。 写真集 [ ]• のことであるとの説もある。 素戔嗚尊はと結ばれた神話から、に代表されるように縁結びの神様としても信仰されている。 であった鰐淵寺は、、より「国中第一之伽藍」と呼ばれた。 陰暦の十月のことを神無月という。 これは全国の神々がみな、出雲の国にあつまり、他の土地では神様が留守になってしまうので一般に神無月(かんなつき)というのであるが、出雲では反対に神有(在)(かみあり)月(つき)と呼ぶ。 千家尊統『出雲大社』日本の神社3,p. 112• この伝承と結びついて、全国の神々は出雲大社に集合し、これから一年間の幽事(神事)を相談するのだという信仰を生みだし、幽事というところから、男女の縁結びはもちろん、人世上の諸般のできごとまで、すべてこのときの神議(かみはか)りによってきめられるのだと信じられているのである。 千家尊統『出雲大社』日本の神社3,p. 113• 文献にあらわれる最古のものはの『』での「かみなつき天下のもろもろの神出雲国にゆきてこと国に神なきが故にかみなし月といふをあやまれり」である。 『』にある一文「出雲は仲人の神」が最古とされる。 出典 [ ]• (2018年9月30日閲覧)。 島根県大百科事典編集委員会『島根県大百科事典』上巻、山陰中央新報社、1982年、110頁• 『日本書紀』崇神天皇60年7月己酉(14日)条。 『出雲大社教布教師養成講習会』発行出雲大社教教務本庁平成元年9月1日全428頁中15. 16頁• 『しまねの古代文化』第十一号、島根県古代センター。 島根県大百科事典編集委員会『島根県大百科事典』上巻、山陰中央新報社、1982年、254頁• 『神道の本』 192頁。 『新版 神事の基礎知識』講談社、2006年9月。 135頁• 『出雲大社教布教師養成講習会』発行出雲大社教教務本庁平成元年9月1日全428頁中12 - 13頁• 『出雲大社教布教師養成講習会』発行出雲大社教教務本庁平成元年9月1日全428頁中32頁• 島根県大百科事典編集委員会『島根県大百科事典』上巻、山陰中央新報社、1982年、95頁• 島根県大百科事典編集委員会『島根県大百科事典』上巻、山陰中央新報社、1982年、923頁• 出雲教. 2019年6月15日閲覧。 2009年9月6日, at the. 2012年5月22日, at the. (出雲大社ホームページ)• 121、pp. 94-101、勉誠出版、2009年。 大林組(2018年9月30日閲覧)。 (2018年9月30日閲覧)。 2013年1月19日, at the. (出雲大社ホームページ)• - (時事通信社提供、2013年3月13日公開)• 1982年. 109-110• 産経ニュース. 2016年3月8日. 2017年2月10日閲覧。 毎日新聞. 2016年3月4日. 2016年9月21日閲覧。 YOMIURI ONLINE. 2016年9月15日. の2016年9月15日時点におけるアーカイブ。 2016年9月21日閲覧。 毎日新聞. 2016年9月27日. 2017年2月10日閲覧。 2016年10月12日, at the. 文化財一覧の目録は、(島根県ホームページ)、(出雲市ホームページ)による。 『出雲大社教布教師養成講習会』発行出雲大社教教務本庁平成元年9月全427頁中380頁• 『出雲大社教布教師養成講習会』発行出雲大社教教務本庁平成元年9月全427頁中381頁• 『出雲大社教布教師養成講習会』発行出雲大社教教務本庁平成元年9月全427頁中393頁• 朝日新聞デジタル. 2012年9月6日. の2012年9月6日時点におけるアーカイブ。 参考文献 [ ]• 千家尊統(第82代())『出雲大社』( 初版1969年、第2版1998年)• 浅川滋男編『出雲大社 日本の美術476』( 2005年)• ほか4名『古代出雲大社の祭儀と神殿』(学生社 2005年)• 西岡和彦『近世出雲大社の基礎的研究』( 2004年)• - で「元出雲」とも称される。 - に建立された出雲大社「杵築の塔」の移築先• - 1273年 に初代北島貞孝の兄 北島氏 によって建立され、により再建された。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - 公式サイト•

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