アダムス ミス 国富 論。 アダム・スミス著『国富論』から学ぶ (その2)

アダム・スミス イギリス旧20ポンド紙幣の肖像画人物の功績を探る

アダムス ミス 国富 論

アダムスミスとはどんな人物か 名前 アダム・スミス 誕生日 1723年6月5日 没日 1790年7月17日 生地 スコットランド カーコーディ 没日 スコットランド エディンバラ 配偶者 未婚 埋葬場所 スコットランド(イギリス) エディンバラ アダムスミスの生涯をハイライト アダムスミスの生涯をダイジェストすると以下のようになります。 1723年6月、スコットランドの海沿いの街カーコーディにてアダムスミス誕生。 14歳でグラスゴー大学、17歳でオックスフォード大学へ進学。 1748年、エディンバラ大学で教鞭を執る。 その3年後、グラスゴー大学に教授として就任。 1759年、「道徳感情論」刊行。 1767年「国富論」の研究開始、1776年「国富論」完成。 1790年7月、スコットランドのエディンバラにて亡くなる。 アダムスミスのは経済学の考え方をどう変えた? アダムスミス 銅像 アダムスミスは近代経済学の父と呼ばれており、彼の発表した「国富論」は世界に多大な影響を与えました。 今までの経済学の考え方は金銀財宝を富の象徴として捉える「重商主義」が一般的でしたが、アダムスミスは生活必需品や嗜好品など(消費財)が富であるという考えを提唱します。 つまり、16世紀から18世紀にかけては輸出を盛んに行うことで金銀を得ることが国を豊かにすると考えられていましたが、これからは輸入をして生活必需品を増やすことが国民の生活を豊かにする方法だということを発表しました。 この考えは当時の世界に衝撃を与えますが、のちの政府も収入改善策を講じる際に「国富論」を参考に政策をまとめています。 アダムスミスと朋友ヒュームの関係性とは? デイヴィット・ヒューム アダムスミスとデイヴィット・ヒュームは1750年に出会って以来、生涯に渡って親交がありました。 元々は学生時代のスミスがヒュームの著した「人間本性論」に影響を受けたことが始まりで、そこで得た思想を「道徳感情論」の中にも現しています。 ヒュームは生涯で「イングランド史」、「四論集」、「政治論集」など数々の著作を世に送り出していますが、執筆の際にはスミスの意見をよく聞いたそうです。 そして、スミスが1776年に「国富論」を出版するきっかけとなったのは、ヒュームの体調不良だと言われています。 ヒュームが存命のうちに「国富論」を出版したいという思いがあったそうです。 アダムスミスが他に影響を受けた人物、与えた人物とは? フランシス・ハッチソン アダムスミスはグラスゴー大学の自然法学の教授フランシス・ハッチソンから大きな影響を受けます。 ハッチソンはスコットランド啓蒙思想の祖となる人物であり、ジョン・ロックの思想を受け継ぎつつ、「道徳感覚理論」を発表しました。 この考えがスミスの「道徳感情論」へと繋がるのです。 アダムスミスが影響を与えた人物は多くいますが、スミスが「国富論」を発表してから約100年後に「資本論」を執筆したマルクスは名前を知っている方も多いと思います。 また、20世紀に「一般理論」を発表したケインズもスミスから影響を受けました。 この3人を簡単にまとめると、スミスの提唱した論を否定し、社会主義を推したのがマルクス、スミスの考えを修正し、洗練させたのがケインズというイメージです。 アダムスミスの功績 功績1「書籍『道徳感情論』の出版」 国富論 「国富論」は1776年にアダムスミスが発表した書物です。 現代まで続く経済の仕組みの出発を促したと考えられており、現代でも広く親しまれている書籍となっています。 全5編からなっており、第1、2編が理論、第3編が経済史、第4編が経済思想史、経済政策論、第5編が財政学です。 内容を簡単に述べると、今までの金銀に価値を置く考え方(重商主義)を批判し、生活必需品や労働力に価値を見出すという考え方を提唱したのです。 そして、労働の価値は分業によって飛躍的に上がるということも述べました。 アダムスミスは「見えざる手」についても言及しましたが、それは後ほど解説いたします。 功績3「『見えざる手』を提唱 」 青物市場 需要と供給 「見えざる手」は「国富論」の第4編経済思想史の中に登場する言葉です。 投資家が自分の利益を考えて資産運用をすると、結果的に市場全体の投資を促し、万人の利益に繋がるということを示しています。 自分の利己心に基づいて行動しているのに、あたかも「見えざる手」に導かれるかのように経済をうまく回し、利他的な結果に落ち着くということです。 現代では、市場における自由競争の需要と供給のバランスが「見えざる手」によって適切に調整され、結果として最適な利益配分をもたらすという意味で使用されています。 アダムスミスの名言 「多くの場合、個人の利益の追求こそが社会を豊かにするのだ。 それは豊かな社会を目的とするよりもずっと効果的だ。 」 この名言はアダムスミスの著した「国富論」を端的に説明しています。 スミスは個人個人が必要とする生活必需品が価値を持ち、ひいては人々の労働が富を生み出すと説きました。 この精神は21世紀になっても受け入れられている思想です。 「社会に属する人々の大部分が貧しく不幸であれば、その社会が幸福で繁栄した社会となることは決してない。 」 アダムスミスは民衆の力を借りることが富への大きな一歩になると宣言しました。 これが資本主義や民主主義の始まりとなるのです。 このような社会に生きている人が不幸であれば、世の中は成り立ちません。 「できる人は自分が理解しているというだけでなく、人に理解させることが出来るようにするため真剣である。 それはいつも腕が良いと思われるわけではないかもしれないが、それこそが本物だ。 」 本当に頭の良い人はどうすれば人に伝わるかを理解しながら説明することが出来るはずです。 一方で、難しいことを噛み砕いて解説を行うため、時には賢いと思われないこともあるかもしれません。 しかし、それが本物の賢者であるとアダムスミスは説いています。 アダムスミスの人物相関図 スコットランド カーコーディ スコットランドの海沿いの街カーコーディにてアダムスミス誕生 アダムスミスはカーコーディの関税監督官であった父・アダム・スミスと母・マーガレット・ダグラスの間に生まれています。 父はスミスが生まれる前に亡くなってしまいましたが、母・マーガレットが愛情深く育てることになります。 アダムスミスが3歳の時にストラセンリという街で浮浪者に誘拐されます。 しかし、何もされることなく、無害の状態で連れ戻されることとなりました。 14歳でグラスゴー大学へ 6歳になると近所の町立小学校へ通うことになります。 無事に小学課程を終えると、次はグラマースクールへと通いました。 この頃、突然放心するという癖がつくようになります。 グラマースクールも卒業すると、14歳でグラスゴー大学へ通うことになりました。 この時に熱心に学んでいたのは自然法学や道徳哲学で、この教科を教えていたフランシス・ハッチソンの思想から大きな影響を受けることとなります。 1740年 — 17歳「オックスフォード大学へ」 オックスフォード大学 グラスゴー大学卒業後、オックスフォード大学へ進学 グラスゴー大学を3年間で卒業すると、オックスフォード大学への進学を決めます。 資金的に厳しい面もあったので奨学金を借りながら勉学に励むこととなりました。 しかし、オックスフォード大学での講義は古典の教科が多かったため退屈します。 そのため、徐々に自学自習で学ぶようになっていくのでした。 この時期にヒュームの執筆した「人間本性論」を読み、感銘を受けることとなります。 そして、オックスフォード大学に進学してから6年後の1746年、過程を終了しないうちに大学をやめることとなり、中退という扱いになってしまいます。 エディンバラ大学で教鞭を執る 1748年、オックスフォード大学中退から2年後、エディンバラ大学で講義を受け持つことになりました。 行った授業は文学や法学です。 そして、この出来事をきっかけに1751年、グラスゴー大学の論理学教授に任命されることとなりました。 グラスゴー大学では初めの頃は文学や法学を教え、一年ほど経った頃には自然法学や政治学も教えるようになっていました。 その翌年には、講義科目をさらに自然神学、倫理学、経済学など幅広く扱っていくようになります。 1759年 — 36歳「『道徳感情論』を刊行する」 「道徳感情論」 コンドルセ夫人訳 フランス語版 初版 「人間本性論」を執筆したヒュームとの出会い アダムスミスはオックスフォード大学在学中にヒュームの「人間本性論」を読んで多大な影響を受けました。 そのヒュームと1750年前後に出会い、意気投合します。 2人は生涯を通じて親交を深め、お互いの出版する書物に関して相談することが多くありました。 ヒュームの執筆した「人間本性論」はトーマス・ジェファーソンやベンジャミン・フランクリンなどのアメリカ建国に尽力した大家たちの思想にも大きな影響を与えています。 「道徳感情論」を発表する アダムスミスはグラスゴー大学にて教鞭を執っている時に「道徳感情論」の執筆を開始します。 この内容は当時アダムスミスが大学で教えていた倫理学の授業に基づいて書かれています。 人々が生活している社会というコミュニティにおいて、秩序が成り立っているのは人間のどのような本質から来ているのかを説いた書物となっています。 アダムスミスはこれを人間の「同感・共感」が社会を秩序立てていると結論づけています。 そして自分の行為が適切かどうかを判断するのは自らの心の中にいる「公平な観察者」であるという考えを示しました。 「道徳感情論」は当時、あまり注目されませんでしたが、現在ではアダムスミスの記した2大書物として多くの人に読まれています。 1776年 — 53歳「『国富論」の発表」 国富論 グラスゴー大学退職後、「国富論」の研究開始 1763年にグラスゴー大学を辞職すると、スコットランド侯爵ヘンリー・スコットの家庭教師としてフランスやスイスなどを訪れます。 そこでフランス啓蒙思想家らと関係を持つようになりました。 1766年にスコットランドへ帰国すると、故郷のカーコーディへと戻ることになります。 1767年、「国富論」の研究および執筆を開始し、ほとんど外出をしないような生活をするようになりました。 ヒュームとは度々「国富論」の内容について意見交換を行います。 「国富論」の執筆完了、そして刊行 1776年、約10年の歳月をかけて完成した「国富論」(正式名「諸国民の富の本質と原因についての研究」)を発表します。 賛否両論の声が吹き荒れますが、売れ行き自体は上々でした。 「国富論」の内容はアダムスミスがグラスゴー大学で教えていた経済学に則って記されました。 富が生活必需品で成り立っており、日々の労働によって捻出されるということを示し、今までの貴金属が富であるとする重商主義を否定する考えを主張しています。 「国富論」は後年、政府の収入改善策にも貢献することとなりました。 1790年 — 67歳「アダムスミス死去。 死因は不明。 」 リンク 名著を漫画に書き換え、分かりやすくしたシリーズです。 オリジナルの国富論は内容がとても多いため、全てを網羅しきれてはいませんが、要所のみを知りたいという方にはおすすめの一冊です。 イラストを用いて、内容を噛み砕いて描かれているので子供でも理解しやすくなっています。 アダムスミスについてのまとめ アダムスミスは近代経済学の父と呼ばれ、生涯に得た知識を凝集して「国富論」を執筆しました。 現代に至るまで数多くの経済学者がスミスの思想に少なからず影響を受けているのです。 スミスの人生の中で著されたもう一つの書物「道徳感情論」も長年に渡って世界中の人々に読まれています。 今回はアダムスミスについてご紹介しました。 この記事をきっかけにさらに興味を持っていただけると幸いです。 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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「アダムスミス」の思想とは?著書『国富論』や名言も紹介

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国家の統制・介入の排除を主張 現在、日本には「経済学部」を置く大学がたくさんあります。 経済学が学問として誕生したのは比較的新しく、18世紀の アダム・スミスの『 国富論』(1776年)が最初だといわれます。 スミスが生きた時代は、イギリスが産業革命を推進している真っ最中でした。 産業革命以前のイギリスでは、絶対王政の下で一部の大商人が国王から特権を受け、外国貿易を通じて 国富の増大を図る 重商主義と呼ばれる政策がとられていました。 これに対してスミスは、重商主義政策を批判し、国家の統制や介入を排除すべきだと説きました。 市場において自由に競争することによって生産性が高まり、国富が増大すると考えたからです。 スミスの思想は、やがてイギリス産業革命および資本主義社会の発展をもたらす理論的支柱となっていきました。 [図表1] アダム・スミスの『国富論』(『諸国民の富』と訳される場合もある) 利己心を肯定し、経済発展の原動力だと説いた理由 一般に、人間にはお金持ちになりたい、豊かな消費生活をしたいという利己心があります。 普通、利己的な人間は尊敬されません。 ところがスミスはこれを肯定しました。 経済活動に限っていえば、この利己心こそが経済活動のエネルギーであり、経済を発展させる原動力であるとしたのです。 たしかに、各人の利己心にまかせれば、みんなが勝手に行動し社会が混乱する心配があります。 しかし、スミスはこうした心配に対して、たとえ、みんなが勝手気ままに行動しても、(神の)「 見えざる手」によって需要と供給が調整され、世の中全体としてはある種の調和状態が実現すると説いて反論しました。 今日でいう、いわゆる価格の自動調節機能です。 スミスは、政府は道路や橋、警察、消防、国防など、最低限のことさえやっていればよく、市場に余計な干渉をするべきではないと考えました。 こうした考え方は「 小さな政府」と呼ばれます。 すべては市場が解決してくれる。 もし市場でうまくいかないことがあれば、政府が市場に余計な干渉をしているからであり、 自由放任(レッセ・フェール)こそが最良の政策だとスミスは主張したのです。 ただし、誤解のないように一言付け加えておくと、スミスのいう利己心あるいは自由放任とは、無制限の弱肉強食の世界を目指すものではありません。 スミスは、『 道徳感情論』(1759年)のなかで、人間は利己的なところもあるけれども、それだけではなく、他人を見て自分も一緒に喜んだり悲しんだりする「 同感(sympathy)」と呼ばれる能力を備えていると述べています。 そして、市場の「見えざる手」が機能するためには、個人の利己心が正義感覚によって制御される必要があり、フェア・プレイが行なわれる必要があると述べています。 すなわち、法律やルールに従うだけではなく、その社会である程度成立している「公平な観察者」の基準に照らして行動がなされるべきだと主張しているのです。 この時代にすでにフェア・プレイという言葉を使っていたことが注目されます。 みなさんは、スミスなんて200年以上も前に「死んだ人」だと思っているかもしれません。 とんでもない誤解です。 スミスの思想はいまも生きています。 現在日本で行なわれている規制緩和や競争促進政策は、すべてスミスの思想への先祖返りの政策です。 (神の)「見えざる手」とはいったい何なのか。 なぜ、みんながバラバラに行動しても混乱が起きないのか。 その秘密は、筆者著書『意味がわかる経済学』の「ミクロ経済学」の項目で詳しく説明しています。 連載経済ニュースを本質から理解するための「経済学」入門• 【第2回】 資本主義発展の理論的支柱となったアダム・スミスの『国富論』•

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アダムスミスの思想とは?国富論では『神の見えざる手』は1回しかでていなかった。

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1巻の15ページなら【1? 15】と表記した。 引用文中で強調したい個所には〈 〉をつけた。 ============================== 第3節 アダム・スミスとその時代 1.スミスの課題 彼は近代が近代として成立しようとしている時期の思想家で、 近代とは何かを示すことが役割だった。 近代社会とは何か、近代国家とは何か。 資本主義社会とは何か。 その全体像を論じた初めての試みが『国富論』である。 近代という固定的で安定した時代があったのではない。 逆に、近代こそ、つねに運動し、運動し続けることでしか存在できない時代であり、 それが始まっていたのである。 スミスの時代は大きな転機の時代であり、危機の時代だった。 国内では産業革命が始まり旧来の手工業者が没落した。 新たに勃興した資本家階級を中心に選挙法改正運動が起こっていた。 イギリスは海外ではスペインやオランダとの戦いを制し、 植民地支配を全世界に拡大し世界を支配していたが、それはイギリスの経済に大きな負担となり 国家財政は破たんに直面していた。 しかもアメリカの独立戦争がはじまり、その対応を間違えればイギリスも過去の栄光に生きる国になってしまう。 その国家的な危機を前にして、従来の重商主義的な政策は決定的に破綻していると考えたのがスミスだった。 「富とは何か」が改めて問われたが、重商主義は、富を金銀や貨幣とし、 貿易差額によってそれらを蓄積することを目的とした。 「国際競争力」のために、国内の一部の独占商人と他の規制、外国産業の排除と保護貿易。 巨大な海軍力で植民地を拡大し、原料の確保と自国産業の独占市場を確保しようとする(大きな政府)。 こうしてできあがった国家による独占的な統制経済の体系が重商主義である。 これに対して、スミスにとっての富とは生活必需品(消費財)であり、 富をもたらすのは労働である(労働価値説)。 この考えは、『国富論』の冒頭で高らかに宣言されている。 「国民の年々の労働は、その国民が年々消費する生活の必需品と便益品のすべてを 本来的に供給する源であって、この必需品と便益品は、つねに、労働の直接の生産物 であるか、またはその生産物によって他の国民から購入したものである」。 1】 そうであれば、富を増やすには労働生産性を高めることが核心であり、 そのためには交換と分業を増大する必要があり、そのためには公正な市場原理が貫徹される必要がある。 しかし重商主義の統制はそれを阻害し、経済力の発展を困難にする。 海外市場ではなく、国内市場こそが優先されるべきだ。 したがってスミスにとって必要なのは「夜警国家」(小さな政府)である。 このスミスの考えを「自由主義」「自由放任主義」と名付けたのは後世の人たちのようだ。 2.スミスの人生 スミスは1723年にスコットランド東海岸の小さな港町カコーディに税関吏の次男として生まれた。 そこでの産業の中心は北海貿易で、付近にはいくつか工場もあった。 その後、植民地貿易で栄えていたグラスゴーのグラスゴー大学に入学。 宗教から距離を置いた自由な学風の大学だった。 大学卒業後、イングランドのオクスフォード大学で学んだが、 当時のオクスフォード大学は政治的反動と学問的沈滞の渦中にあったそうだ。 スミスはグラスゴー大学で教えることになる。 そこでヒュームとの親交が始まる。 スミスは道徳哲学を担当し『道徳情操論』を刊行しブレイク。 その後、経済学の研究に専念。 スミスはしばらくフランスに滞在し、重農主義に学ぶ。 ケネーの経済表、経済の循環、再生産の構想など。 そして帰国。 10年の研鑽を経て『国富論』を完成。 1776年のことだ。 当時の世界的思想家であるスミスとヒュームが、イングランドではなくスコットランド出身である ことには意味があるだろう。 スコットランドとイングランドの両国は1707年に1つの国家に統合されたが、 両国の関係には対立・矛盾があった。 スコットランド内部にも、保守層と植民地貿易で繁栄する新興層の対立があった。 スミスはそうした中で、観察眼を養っていたのだろう。 こうした背景に今も大きな変化がないことは、2014年9月のスコットランドの独立騒動からも明らかになった。 3.スミスの能力 『国富論』を読むと、圧倒的な面白さを感ずるが、それを能力として捉えると、以下のことが挙げられるだろう。 (1)全体を見る (2)ダイナミズム 運動を運動として (3)「存在が意識を規定する」 唯物弁証法 (4)発展的にとらえる (5)時局問題への対応 (6)平易なわかりやすさ (1)全体を見る スミスに感心するのは、その全体を見る力である。 彼は全体を全体として示すことができる。 だからこそ、スミスは「公平」「公正」な視点を持つことができた。 他の人にそれができないのは、さまざまな価値観や偏見にしばられて全体が見えなくなっているからだ。 彼が経済の根本に据えた「労働」を考えるとわかりやすい。 それをスミスは直視するが、それは以前はできない事だった。 奴隷制社会に生きたアリストテレスには、 労働一般は見えなかった。 彼に見えたのは「精神労働」だけで、奴隷と肉体労働は視野の外にあった。 スミスにはそうしたことがない。 それどころか、社会の下層の人々、たとえば死刑執行人や動物解体業者 【1? 167】をも視野に入れている。 だからこそ工場内の賃金労働者の労働を国家の富の源泉ととらえることができた。 スミスは、冨が社会の最下層にまで行きわたることの是非を正面から問う【1? 133】。 当時のエリートたちの多くは、心に思っても口にはしない。 そうしたタブーがスミスにはない。 それほどに、彼は全体的で公平な視点を持っている。 (2)思考のダイナミズム 運動を運動として 重商主義は、結局は貿易差額を富の源泉とするのだから、足し算引き算の世界で、静的な世界だ。 これをとらえるには悟性段階で十分だ。 しかし、資本を運動させ拡大再生産をし続けないといけない資本主義をとらえるには、 運動を運動として、「力」の現れとして動的にとらえることが必要になる。 当時の勃興する資本家たちを代表するスミスには、そうしたダイナミックな思考力がある。 彼は、矛盾した2面をおさえながら、考察できる。 相反する2要素を組み合わせて、価格決定の仕組みを説明できる【1? 145】。 関係を「力」や「支配力」とその現れを通してとらえることができる。 54】。 全体の中に様々な要素があれば、全体を「規制」するものは何かを問わねばならない【1? 70】。 これは、社会のすべてを構造的に、上下関係でとらえることになっていく。 それは根源にさかのぼることでもあり、マルクスの言う「下降法」を徹底することになる。 スミスは経済活動の根源を明らかにする。 交換と分業が生産力を高める以上、その根本を動かすのは人間の欲望である。 スミスは欲望を全肯定する。 すべてをそこから導出しようとするのだ。 (3)「存在が意識を規定する」 唯物弁証法 スミスは物事の表面的な現象に騙されることが少ない。 事実を事実として示すことができる。 普通は、「常識」という名の「偏見」や、「道徳」という名の「習俗」や、自分の欲望から 事実は見えにくくなる。 しかし、彼はキレイごとや建前ではなく、事実を見ることができる。 だから楽々と核心を突き、平易にそれを表現する。 それができたのは、経済活動がすべての基礎であり、そこから社会や政治や文化現象の真実を 説明できることを、スミスが知っていたからだ。 それは唯物史観に通じている。 スミスは『道徳情操論』をまとめているが、彼の主張や論旨には、およそ「道徳的」なところが ないことに驚く。 スミスにとって「道徳」とは社会の現実の関係の反映でしかなく、 それは社会をリアルに見ることで認識できるとかんがえていたのだろう。 たとえば、奴隷制度の是非も、スミスにとっては経済問題に過ぎない。 スミスは、使用人が奴隷と自由人で、どちらがコストパフオーマンスが良いかという問いを正面から 立てる【1? 136,7】。 もちろん自由人の方が、自分を大切にするので結局は安上がりなのだ。 また、スミスは人間の価値観や意識や無意識までを経済から説明する。 例えば、貧困と出産率【1? 134】、 就職先としての海軍と陸軍との違い【1? 181,182】など。 スミスは自らの社会が、その経済関係から、3大階級(賃金労働者、資本家、大地主)にわかれている ことを見ていたが、その階級の大枠や、その細部の違いが、人々の思考や価値観や生活意識の違いとなって 現れることを的確に見抜いている。 いたるところにそうした指摘があるが、例えば、文明社会の道徳を スミスは2つに分ける。 庶民の厳格主義と上流階級の自由主義だ【3? 166,7】。 鋭い指摘だと思う。 1つの政策は特定の階級と結びつく。 重商主義もスミスの自由主義も、それぞれが依拠する階級の利益を代弁している。 そのことにスミスは自覚的だ。 たとえば「穀物貿易法」が誰の利益になっているのかを、スミスは推理小説のような鮮やかさで暴露する【2? 130】。 近代の原理は自由と平等であるが、スミスにとってはこれも経済の反映なのだ。 近代社会では労働はすべての人間の本質、人間の根本規定として現れた。 スミスはそこから人間の平等の原理や、私的所有、職業選択の自由、移住の自由などをとらえていた。 逆ではない。 スミスははっきり言わないが、近代の人間観とは資本家階級を代表するものであり、彼らの利益と結びついている。 それが一般化されたということは、資本家階級が支配階級になったということだ。 こうした点を見抜き、決して道徳や倫理や「人間の本質」などの美名のもとにごまかすことをしないのが、 スミスでありマルクスだ。 人間の意識や価値観を経済が規定するという考えは確かに唯物論である。 ただし、機械的に経済が意識を決めるととらえているのではない。 意識という独立した機能を媒介にして反映するのだ。 それは「存在が、意識を媒介にして、意識を規定する」という唯物弁証法の立場である。 「存在が意識を規定する」ことについてのスミスの理解は深い。 例えば、東インド会社の酷さを告発しつつも、それを次のように擁護もする。 「私は東インド会社の使用人たち一般の人格になんらか忌わしい避難をあびせるつもりは毛頭ないし、 まして特定の人物について、その人柄を問題にしようとしているのではない。 私がむしろ非難したいのは、 その植民地統治の〈制度〉なのであり、使用人たちがおかれているその〈地位〉であって、 そこで行動した人々の人柄ではない。 かれらは、〈自分たちの地位がおのずからに促すままに行動しただけのこと〉 であり、声を大にしてかれらを非難した人々といえども、いったんその地位におかれれば、 いまの使用人よりも好ましく行動はしなかったであろう」【2? 432】。 Leave a Reply Name required Mail will not be published required Website.

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