真夜中 の 御徒 町。 幕府主要役職

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真夜中 の 御徒 町

概要 [ ] 周辺5駅を核とした地域・通称。 7ヶ所の、を形成する拠点地域のひとつでもある。 、が竹町(御徒町の北側)現在の佐竹商店街近辺にあり、後野ッ原になった。 その後の後半からにかけて、この地には、が並び東京の一大を成していた。 寿亭、蜻蛉軒、久本亭のほかに、玉ころがしなどもあった。 、、、等の多数のが集まり大変賑わったという。 その後に入りができると、もっぱら西側である上野広小路方面が栄えた。 詳細は参照 交通 [ ] 鉄道 (カッコ内)は駅所在地。 いずれも台東区 ・ - (五丁目) - (上野三丁目) - (上野五丁目) - (上野五丁目) 都営大江戸線・ - (大江戸線は一丁目、つくばエクスプレス線は二丁目) 路線バス 地名の由来 [ ] 、やの護衛を行う下級武士、つまり騎乗が許可されない武士である(徒士)が多く住んでいたことに由来する。 御徒町周辺に於いてはに住み禄(現在の)だけでは家計を賄い切れずをし生活していた下級武士を指す。 なお、現在は町名としては消滅し、台東区、およびの一部となっている。 また、この地名はであればどこにでもあるでもある。 御徒はそれぞれ組に属し、御徒組は本丸15組、西ノ丸5組が存在した。 各組の構成は頭1名、組頭2名、御徒28名から成り、将軍の行列の先導や幕府御用の警護、江戸城中の雑用を職務とし、組単位で屋敷地を拝領し、その組屋敷で暮らした。 『正保江戸図』(1644)には、地理的に軍事上の要所でもあった下谷・浅草に組屋敷があった。 住居表示以前の地名 [ ] 1911年までの地名 1964年までの地名 現在の地名 改称時期 下谷御徒町一丁目 御徒町一丁目 台東一丁目・台東二丁目・台東三丁目 1月1日 下谷御徒町二丁目 御徒町二丁目 台東三丁目・台東四丁目 1964年1月1日 下谷御徒町三丁目 御徒町三丁目 東上野一丁目・東上野二丁目 1964年10月1日 下谷仲徒町一丁目 仲御徒町一丁目 全域 上野五丁目 1964年10月1日 下谷仲徒町二丁目 仲御徒町二丁目 全域 上野五丁目 1964年10月1日 下谷中御徒町三丁目 仲御徒町三丁目 上野三丁目・上野五丁目・上野六丁目 1964年1月1日 下谷仲徒町四丁目 仲御徒町四丁目 全域 上野六丁目 1964年10月1日 主な観光場 [ ]• - 鮮魚を中心とした食料品総合小売店• - 東上野。 旧称・上野親善マーケット。 ギャラリー [ ]•

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徒(ず)とは

真夜中 の 御徒 町

」 田代 ( たしろ )君はこう云いながら、一体の 麻利耶観音 ( マリヤかんのん )を 卓子 ( テーブル )の上へ載せて見せた。 麻利耶観音と称するのは、 切支丹宗門 ( きりしたんしゅうもん )禁制時代の 天主教徒 ( てんしゅきょうと )が、 屡 ( しばしば ) 聖母 ( せいぼ )麻利耶の代りに 礼拝 ( らいはい )した、多くは 白磁 ( はくじ )の観音像である。 が、今田代君が見せてくれたのは、その麻利耶観音の中でも、博物館の陳列室や世間普通の 蒐収家 ( しゅうしゅうか )のキャビネットにあるようなものではない。 第一これは顔を除いて、他はことごとく 黒檀 ( こくたん )を刻んだ、一尺ばかりの立像である。 のみならず 頸 ( くび )のまわりへ懸けた 十字架形 ( じゅうじかがた )の 瓔珞 ( ようらく )も、金と青貝とを 象嵌 ( ぞうがん )した、極めて精巧な 細工 ( さいく )らしい。 その上顔は美しい 牙彫 ( げぼり )で、しかも唇には 珊瑚 ( さんご )のような一点の朱まで加えてある。 …… 私は黙って腕を組んだまま、しばらくはこの 黒衣聖母 ( こくいせいぼ )の美しい顔を眺めていた。 が、眺めている内に、何か怪しい表情が、 象牙 ( ぞうげ )の顔のどこだかに、 漂 ( ただよ )っているような心もちがした。 いや、怪しいと云ったのでは物足りない。 私にはその顔全体が、ある悪意を帯びた嘲笑を 漲 ( みなぎ )らしているような気さえしたのである。 「どうです、これは。 」 田代君はあらゆる蒐集家に共通な 矜誇 ( ほこり )の微笑を浮べながら、 卓子 ( テーブル )の上の麻利耶観音と私の顔とを見比べて、もう一度こう繰返した。 「これは珍品ですね。 が、何だかこの顔は、 無気味 ( ぶきみ )な所があるようじゃありませんか。 」 「 円満具足 ( えんまんぐそく )の 相好 ( そうごう )とは行きませんかな。 そう云えばこの麻利耶観音には、妙な伝説が附随しているのです。 」 「妙な伝説?」 私は眼を麻利耶観音から、思わず田代君の顔に移した。 田代君は存外 真面目 ( まじめ )な表情を浮べながら、ちょいとその麻利耶観音を 卓子 ( テーブル )の上から取り上げたが、すぐにまた元の位置に戻して、 「ええ、これは 禍 ( わざわい )を転じて 福 ( さいわい )とする代りに、福を転じて禍とする、 縁起 ( えんぎ )の悪い聖母だと云う事ですよ。 」 「まさか。 」 「ところが実際そう云う事実が、持ち主にあったと云うのです。 」 田代君は 椅子 ( いす )に腰を下すと、ほとんど物思わしげなとも形容すべき、陰鬱な眼つきになりながら、私にも 卓子 ( テーブル )の向うの椅子へかけろと云う手真似をして見せた。 「ほんとうですか。 」 私は椅子へかけると同時に、我知らず怪しい声を出した。 田代君は私より一二年 前 ( ぜん )に大学を卒業した、秀才の聞えの高い法学士である。 且 ( かつ )また私の知っている限り、 所謂 ( いわゆる )超自然的現象には 寸毫 ( すんごう )の信用も置いていない、教養に富んだ新思想家である、その田代君がこんな事を云い出す以上、まさかその妙な伝説と云うのも、 荒唐無稽 ( こうとうむけい )な怪談ではあるまい。 」 私が 再 ( ふたたび )こう念を押すと、田代君は 燐寸 ( マッチ )の火をおもむろにパイプへ移しながら、 「さあ、それはあなた自身の御判断に任せるよりほかはありますまい。 が、ともかくもこの 麻利耶 ( マリヤ )観音には、気味の悪い 因縁 ( いんねん )があるのだそうです。 御退屈でなければ、御話しますが。 勿論 骨董 ( こっとう )としてあったのではなく、一家の繁栄を祈るべき 宗門神 ( しゅうもんじん )としてあったのですが。 その稲見の当主と云うのは、ちょうど私と同期の法学士で、これが会社にも関係すれば、銀行にも手を出していると云う、まあ仲々の事業家なのです。 そんな関係上、私も一二度稲見のために、ある便宜を計ってやった事がありました。 その 礼心 ( れいごころ )だったのでしょう。 稲見はある年上京した 序 ( ついで )に、この 家 ( いえ ) 重代 ( えじゅうだい )の麻利耶観音を私にくれて行ったのです。 私の所謂妙な伝説と云うのも、その時稲見の口から聞いたのですが、彼自身は勿論そう云う不思議を信じている訳でも何でもありません。 ただ、母親から聞かされた通り、この聖母の 謂 ( い )われ因縁をざっと説明しただけだったのです。 何でも稲見の母親が 十 ( とお )か十一の秋だったそうです。 稲見の母親はお 栄 ( えい )と云って、二三年 前 ( ぜん )の疫病に父母共世を去って以来、この茂作と姉弟二人、もう七十を越した祖母の手に育てられて来たのだそうです。 ですから茂作が重病になると、稲見には 曽祖母 ( そうそぼ )に当る、その 切髪 ( きりがみ )の隠居の心配と云うものは、 一通 ( ひととお )りや 二通 ( ふたとお )りではありません。 が、いくら医者が手を尽しても、茂作の病気は重くなるばかりで、ほとんど一週間と経たない内に、もう 今日 ( きょう )か 明日 ( あす )かと云う 容体 ( ようだい )になってしまいました。 するとある夜の事、お栄のよく寝入っている部屋へ、突然祖母がはいって来て、眠むがるのを無理に 抱 ( だ )き起してから、人手も借りず甲斐甲斐しく、ちゃんと着物を着換えさせたそうです。 お栄はまだ夢でも見ているような、ぼんやりした心もちでいましたが、祖母はすぐにその手を引いて、うす暗い 雪洞 ( ぼんぼり )に 人気 ( ひとけ )のない 廊下 ( ろうか )を照らしながら、昼でも滅多にはいった事のない 土蔵 ( どぞう )へお栄をつれて行きました。 土蔵の奥には昔から、 火伏 ( ひぶ )せの 稲荷 ( いなり )が 祀 ( まつ )ってあると云う、 白木 ( しらき )の御宮がありました。 祖母は帯の間から 鍵 ( かぎ )を出して、その御宮の扉を開けましたが、今 雪洞 ( ぼんぼり )の光に 透 ( す )かして見ると、古びた錦の 御戸帳 ( みとちょう )の後に、端然と立っている御神体は、ほかでもない、この麻利耶観音なのです。 お栄はそれを見ると同時に、急に ( こおろぎ )の鳴く声さえしない真夜中の土蔵が怖くなって、思わず祖母の膝へ 縋 ( すが )りついたまま、しくしく泣き出してしまいました。 が、祖母はいつもと違って、お栄の泣くのにも頓着せず、その麻利耶観音の御宮の前に坐りながら、 恭 ( うやうや )しく額に十字を切って、何かお栄にわからない 御祈祷 ( ごきとう )をあげ始めたそうです。 それがおよそ十分あまりも続いてから、祖母は静に孫娘を抱き起すと、怖がるのを 頻 ( しき )りになだめなだめ、自分の隣に坐らせました。 そうして今度はお栄にもわかるように、この 黒檀 ( こくたん )の麻利耶観音へ、こんな 願 ( がん )をかけ始めました。 「 童貞聖麻利耶様 ( ビルゼンサンタマリヤさま )、私が天にも地にも、 杖柱 ( つえはしら )と頼んで居りますのは、当年八歳の孫の茂作と、ここにつれて参りました姉のお栄ばかりでございます。 お栄もまだ御覧の通り、 婿 ( むこ )をとるほどの年でもございません。 もし唯今茂作の身に万一の事でもございましたら、稲見の家は 明日 ( あす )が日にも 世嗣 ( よつ )ぎが絶えてしまうのでございます。 そのような不祥がございませんように、どうか茂作の一命を御守りなすって下さいまし。 それも 私風情 ( わたしふぜい )の信心には及ばない事でございましたら、せめては私の息のございます限り、茂作の命を御助け下さいまし。 私もとる年でございますし、 霊魂 ( アニマ )を 天主 ( デウス )に御捧げ申すのも、長い事ではございますまい。 しかし、それまでには孫のお栄も、不慮の災難でもございませなんだら、 大方 ( おおかた )年頃になるでございましょう。 何卒 ( なにとぞ )私が目をつぶりますまででよろしゅうございますから、死の 天使 ( アンジョ )の 御剣 ( おんつるぎ )が茂作の体に触れませんよう、御慈悲を御垂れ下さいまし。 」 祖母は 切髪 ( きりがみ )の 頭 ( かしら )を下げて、熱心にこう祈りました。 するとその言葉が終った時、恐る恐る顔を 擡 ( もた )げたお栄の眼には、気のせいか麻利耶観音が微笑したように見えたと云うのです。 お栄は勿論小さな声をあげて、また祖母の膝に縋りつきました。 が、祖母は 反 ( かえ )って満足そうに、孫娘の背をさすりながら、 「さあ、もうあちらへ行きましょう。 麻利耶様は 難有 ( ありがた )い事に、この御婆さんのお祈りを御聞き入れになって下すったからね。 」 と、何度も繰り返して云ったそうです。 さて明くる日になって見ると、 成程 ( なるほど )祖母の願がかなったか、茂作は 昨日 ( きのう )よりも熱が下って、今まではまるで夢中だったのが、次第に 正気 ( しょうき )さえついて来ました。 この 容子 ( ようす )を見た祖母の喜びは、仲々口には尽せません。 何でも稲見の母親は、その時祖母が笑いながら、涙をこぼしていた顔が、 未 ( いまだ )に忘れられないとか云っているそうです。 その内に祖母は病気の孫がすやすや眠り出したのを見て、自分も連夜の看病疲れをしばらく休める 心算 ( つもり )だったのでしょう。 病間 ( びょうま )の隣へ 床 ( とこ )をとらせて、珍らしくそこへ横になりました。 その時お栄は 御弾 ( おはじ )きをしながら、祖母の枕もとに坐っていましたが、隠居は 精根 ( せいこん )も尽きるほど、疲れ果てていたと見えて、まるで死んだ人のように、すぐに寝入ってしまったとか云う事です。 ところがかれこれ一時間ばかりすると、茂作の介抱をしていた年輩の女中が、そっと次の間の 襖 ( ふすま )を開けて、「御嬢様ちょいと御隠居様を御起し下さいまし。 」と、 慌 ( あわ )てたような声で云いました。 そこでお栄は子供の事ですから、早速祖母の側へ行って、「御婆さん、御婆さん。 」と二三度 掻巻 ( かいま )きの袖を引いたそうです。 が、どうしたのかふだんは 眼慧 ( めざと )い祖母が、今日に限っていくら呼んでも返事をする 気色 ( けしき )さえ見えません。 その内に女中が 不審 ( ふしん )そうに、病間からこちらへはいって来ましたが、これは祖母の顔を見ると、気でも違ったかと思うほど、いきなり隠居の掻巻きに 縋 ( すが )りついて、「御隠居様、御隠居様。 」と、必死の涙声を挙げ始めました。 けれども祖母は眼のまわりにかすかな紫の色を 止 ( とど )めたまま、やはり身動きもせずに眠っています。 」と、 震 ( ふる )え声で呼び立てました。 が、祖母は依然として、今は枕もとに泣き伏した女中の声も聞えないように、じっと眼をつぶっているのでした。 …… 茂作もそれから十分ばかりの内に、とうとう息を引き取りました。 麻利耶 ( マリヤ )観音は約束通り、祖母の命のある間は、茂作を殺さずに置いたのです。 田代君はこう話し終ると、また陰鬱な眼を挙げて、じっと私の顔を眺めた。 「どうです。 あなたにはこの伝説が、ほんとうにあったとは思われませんか。 」 私はためらった。 」 田代君はしばらく黙っていた。 が、やがて煙の消えたパイプへもう一度火を移すと、 「私はほんとうにあったかとも思うのです。 御覧なさい。 此処に刻んである横文字を。 聖母は 黒檀 ( こくたん )の衣を 纏 ( まと )ったまま、やはりその美しい 象牙 ( ぞうげ )の顔に、ある悪意を帯びた嘲笑を、永久に冷然と 湛 ( たた )えている。

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松例祭|出羽三山神社 公式ホームページ

真夜中 の 御徒 町

町奉行所の分掌の一つに定中役という掛役がありました。 定中役とはどんなお役目だったのか。 三田村鳶魚は『江戸雑話』のなかで定中役について、「同心十人、臨時触当により諸般の出役に従事す」と書いています。 いわゆる総務系の何でも屋だったようですが、番方同心との違いがよく分かりません。 定中役の触当を行う定触役という掛役もあり、こちらは「同心三人」となっています。 番方世話役と同じようなものでしょうか。 どうやら彼らは様々な臨時出役に駆り出される若手の同心たちで、役所内でも比較的軽く扱われ、便利使いされる存在だったものと思われます。 しかし、わざわざ番方同心とは別に敢えて「掛役」として設ける必要があったのでしょうか。 まだ役目(掛役)もつかない、駆け出しの時代に、若手の若同心や見習同心がやらされるという番方同心との違いはどこにあったのでしょうか。 じつは当番方の最大の特徴はその勤務形態にあります。 宿直ありで、二十四時間以上の連続勤務となる当番方は、思いのほか大変な仕事で、与力の場合にはもっともキャリアが浅く、掛役が無いとみなされる若手の与力たちがひっぱりだされ、ロウ・ティーンの当番与力が真夜中にいい年をしたおじちゃん・おばちゃんたちの駆け込み訴えを聴いたり、彼らにお説教したり、喧嘩の仲裁までしていたといいます。 ちょっと不安な気持ちにもなりますが、そこはよくできたもので、同じ番組から、物書同心以上の係長・主任クラスのベテランが当番同心として、当番与力を補佐していました。 お守役といったところですね。 当番与力と当番同心は、壱番から五番までの番組から順番で出て、それなりに責任ある役目を務めますが、主に雑用や力仕事をやらされる駆け出しの同心たちは番組とは別に三番編成となっていて、交替で出勤していました。 それが番方同心です。 番方同心はそうした特殊な勤務形態のため、他の掛役との兼帯や交替の調整なども面倒だったろうと思います。 そこで、日中は常に組屋敷などで待機し、いつでも出役できる定中役のような存在は使い勝手もよかったろうと思います。 また、無役の番方から日勤の掛役へとステップアップしていく過程ではワン・クッションにもなり、敢えて掛役として置く意味もあったのでしょう。 町方与力の給与は地方(じかた。 土地=知行所・給知による給与方式)ではありましたが、誰某に何処といったような銘々の知行分はなく、一人二百石宛五十人で一万石の給知を上総下総両国のうちに、大繩(一括)で与えられていました。 享保四(1719)年、中町奉行の坪内能登守が御役御免になると、後任は置かれず、町奉行は従前の二人制に復し、与力の定員も南北各組二十五騎(両組あわせて五十騎)となって幕末まで続きます。 文政十一(1828)年の『北組与力同心姓名書』(旧幕府引継書)から、北組与力二十五騎の給知高五千石の内訳を見てみましょう。 『北組与力同心姓名書』(旧幕府引継書。 つまり組与力の数は表向きは二十五人でも、実際には二十三人だったわけです。 次に支配五人役料とは、五人の同心支配役(支配与力、筆頭与力ともいいます)の役料で、一人三十石宛五人で百五十石が支給されていました。 与力の高は一人二百石宛の建前ですが、実際には均等ではなく、町奉行の裁量で百五十石〜二百石のあいだで差がつけられていました。 この差額から、支配与力五人の役料も出ていたのです。 用人目安方収納高の四百石は上述した内与力の給料分で、公用人三人が百石宛、目安方二人が五十石宛で五人あわせて四百石の計算となります。 最後に残知七十石の行方ですが、恐らくは知行所の管理や収税等、領主として必要な業務に係る諸経費に充てられていたのではないかと思われます。 さて、文政十一年に、役高二百石をもらっていた北組与力は十四人、高百九十石以下の与力は九人いました(最低は高百六十石の三人)。 この年の七月に新規抱入となったばかりの米倉作次郎・三十八歳や、同じく二月抱入の高橋金五郎・十七歳は最高の高二百石でした。 その一方で、寛政十一(1799)年抱入の五番組支配与力松浦伴右衛門・五十五歳や、文化二(1805)年抱入の壱番組支配与力谷村猪十郎・四十八歳は最低の高百六十石でした(ただし、二人とも支配与力であったため、本俸とは別に役料三十石をもらっていました)。 寛政二(1790)年抱入の最高齢・最古参与力で、年番も勤める弐番組支配与力・嶋喜太郎・六十五歳は高百七十石でした。 新米与力の作次郎や金五郎が二百石なのは、先代の米倉緒右衛門や高橋八郎右衛門が二百石であったからに他なりません。 抱席の与力に家禄はありませんでしたが、町方与力の職とともに役高も親から子へと実質的に世襲されていたのです。 ついでに、同じ文政十一年の南組与力についても、『南姓名書』(旧幕府引継書)で見ておきましょう。 高二百石をもらっていたのは十三人、高百九十石以下が十人いました(最低は高百五十石の一人)。 高二百石には前年抱入の佐野伴蔵・三十二歳や、文政六(1823)年抱入の稲沢弥一兵衛・二十一歳、吉田忠兵衛・二十四歳がいる一方で、最低の高百五十石は文化五(1808)年抱入の中田与一右衛門・四十歳でした。 与一右衛門は弐番組の次席与力で、奉行所の花形ともうべき吟味方に勤めていました。 寛政六(1794)年抱入で年番を勤め、吟味方の筆頭でもあった三番組支配与力仁杉八右衛門・六十歳はこの時、高百七十石でした。 翌文政十二年、八右衛門から忰五郎八郎(後の八右衛門)に番代しますが、後に二代目八右衛門は数度の加増を重ね、嘉永七(1854)年には高二百石になっています。 駆け出しの与力だからといって、禄が少ないということはなく、要職にあるベテラン与力だからといって、禄が多いとも限りませんでした。 五人の支配与力に昇りつめれば、役料三十石がつくものの、上述の例のように役料込でも新米与力の高に及ばないこともありました。 給地高五千石の総枠がある中で、基本的には番代をしても役高が下がらないのですから、加増しようにもできるわけがありません。 それでも。 仁杉八右衛門のように多年の精勤を賞されて、加増されることが稀にありました。 不正やしくじりなどで処分を受け、改易となったり、小普請入りや先手組等への左遷となるケースが稀にあり、その明跡へ小普請その他から入人(転属)となったり、与力の部屋住みが分家を興して、新規抱入(後述)となる場合がありました。 この時に町奉行の裁量で役高を新たに定めることになっており、百五十石程度になることが多かったといいます。 この時の前任者と新任者の役高の差(減)額分が加増の原資となっていたわけです。 滅多に昇給(加増)がないのもやむをえなかったというべきでしょう。 それにしても、加増は本人の働きが認められた結果とはいえ、処分を受けた者が多い組ほど、昇給のチャンスも多かったというのは皮肉というほかありませんね。 終わりに、与力の部屋住みが分家を興して、新規抱入となった事例を一つ紹介しておきたいと思います。 天保十五(1844)年二月二十五日、南町奉行鳥居甲斐守と北町奉行鍋島内匠頭の進達により、内与力が廃止され、その代わりに与力の部屋住みから南北各組二人宛両組計四人を高百五十石で新規抱入とすることになりました。 このとき、分家を立てて新規抱入となったのが北組は五番組支配与力谷村源左衛門の忰栄五郎・三十一歳、四番組支配与力東條八太夫の忰八太郎・二十四歳、南組は三番組支配与力佐久間彦太夫の忰健三郎・三十六歳、壱番組支配与力中村八郎左衛門の忰次郎八・二十八歳の四人でした。 内与力の給与四百石(両組で八百石)が削減され、分家を興した与力たちには三百石(同六百石)が与えられたわけですから、各組で百石宛が浮いた計算になります。 しかし、この七ヵ月後には絶大な権勢を奮っていた鳥居甲斐守が失脚し、一度は大目付に棚上げされていた鳥居の政敵・遠山左衛門尉(遠山の金さん)が後任の南町奉行として返り咲きます。 その結果、内与力も再び復活することになりますが、一度増やした与力を容易く切ることもできず、関係者はさぞや頭を痛めたことでしょう。 このとき、新たに分家を興した与力の一人・佐久間健三郎は、鳥居甲斐守の失脚から約一年後の弘化二(1845)年十月三日、鳥居の不正(でっち上げによる冤罪事件)に関わったとして罷免されています。 健三郎は、このブログにもしばしば名前の出てくる佐久間長敬の実父です。 長敬は、まだ弥太吉と名乗っていた嘉永三年、分家を興した実父にかわって、南町奉行所の無足見習(無給の見習与力)となりました。 二年後の嘉永五年七月二十二日、弥太吉の祖父彦太夫(七十四歳。 三番組支配与力、年番)が病気のため、与力を辞めると、弥太吉は祖父の暇跡に抱入となります。 当然ながら、高も祖父と同じ二百石でした。 もし健三郎が罷免されず、本家分家が並び立っていれば、四十四歳の父が高百五十石の分家当主、十七歳(実年齢は十四歳)の忰が高二百石の本家当主となっているはずでした。 なお、南氏の記事ではこれを嘉永三年四月としていますが、旧幕府引継書の『與力同心前録』はこれを同年正月二十八日としています。 (2018年7月11日加筆訂正) どのような役所や企業にも、大きな権限をもち、組織内で権勢を振るう、有力な部署があります。 現代の役所なら大臣官房や財務省の主計局、企業なら社長室や経営企画室、人事部といったところがそうでしょうか。 江戸の町奉行所にも、そんな有力な分課が三つありました。 用部屋 用部屋には組与力は配置されず、かわりに奉行の家来である内与力(公用人・目安方)が万事を取り仕切っていました。 また奉行の政策を推進する中心的な役割も担っていたものと思われます。 寛政八(1796)年三月、当時の南町奉行坂部能登守の進達により、内与力の制度が廃止され、かわりに旗本役の町奉行支配留役(翌四月、町奉行吟味物調役に改称)が置かれました。 しかし、坂部自身が半年後には西丸留守居へ役替えとなり、内与力廃止の件もうやむやとなってしまったようです。 それでも、この制度は文化八(1811)年八月、町奉行吟味物調役が廃止となり、改めて内与力が再置されるまで十五年間もつづきます。 従来、十人ほどいた用部屋手附同心を公用方と調方の二つに分けて再配置していたことがわかります。 内与力の廃止とはいっても、公用人・目安方の仕事(町奉行の秘書的業務)はそのまま残っており、彼らが解雇されたわけではありませんでした。 ただ公用人のうち、二人の名前を組与力として書き出し、組与力二騎分の俸禄を町奉行が受け取って、公用人たちに再分配するという運用が一時的に廃止されたわけです。 坂部の役替え後はこれもうやむやとなって、結局元の運用に戻ってしまったようですが、吟味物調役が新たに配置された以上は、建前として内与力は廃止ということにしておく必要があったのでしょう。 吟味物調役といえば、仙谷騒動で名を馳せた川路聖謨(後に勘定奉行などの要職を歴任)の寺社奉行吟味物調役が有名ですが、専門の職員をもたない、大名役の寺社奉行と違って、町奉行所には代々その職を受け継ぐ組与力同心たちがいます。 しかし、内与力のかわりにやってきた吟味物調役は、評定所留役や徒目付出身の旗本で、叩き上げの実務家でした。 その上、内与力だけでなく、吟味方与力とも職分が重なっていたわけですから、町方与力たちにとっては、内与力以上にうるさく、やりづらい相手であったに違いありません。 そんなことも後々の町奉行吟味物調役廃止・内与力復活につながっていったのではないでしょうか。 年番方 総務(奉行所の営繕等)、人事(同心の任免等)、給与(組与力の采地や組屋敷の管理等)、経理などを掌る、いわば奉行所の心臓部ともいうべき部署でした。 町方の組与力同心は五番編成で、それぞれの番組の筆頭与力を同心支配役と称し、番組内を統括していましたが、その五人が一年ごとに持ち回りで勤めたことから、年番と呼ばれるようになったといわれています。 年番与力は、町奉行に次ぐナンバー2のポジジョンで、与力の中でも最も重要なポストとされていました。 年番与力は、町方組与力の出世の最終到達点であったといえます。 寛政三(1791)年の町鑑では南北どちらも年番が二人となっていることが確認できます。 また、年番は原則支配与力が任じられていましたが、持ち回りでなくなって以降は、支配与力以外から任命されるケースも見られます。 幕末には年番が三人に増えたといいます。 天保の終わりごろ、北の松浦栄之助が年番手伝、南の仁杉八右衛門が年番助として、弘化二年には南の中村八郎左衛門が当分役として、三人目の年番に任じられたこともありますが、これは一時的な人事運用だったようです。 安政二(1855)年の町鑑では北、文久元(1861)年の町鑑では南北ともに三人の年番が記載されています。 ペリーの来航以降、世情騒然となる中で町奉行所の所管業務もいよいよ複雑多岐にわたり、業務の錯綜も甚だしくなって、組与力同心たちの司令塔ともいうべき年番を増員せざるをえなかったということでしょうか。 職務柄、大名家や有力商人たちからの付届も多く、大半の中堅・若手与力たちにとっては、憧れの的でもあり、吟味方に配属されることが一つの目標でもあったことでしょう。 吟味方にも下役同心とは別に書物役の同心がおり、年番方同様、若手の若同心・見習同心が勤めていました。 与力の分掌には、本所見廻りや養生所見廻り、牢屋見廻りなど、他にも多数あるのに、いささか乱暴な気がしないでもありません。 組与力同心の約半数を擁する当番方に対し、吟味方は町奉行本来の任務ともいうべき公事吟味を担当する分課で、吟味方をサポートする例繰方や赦帳撰要方も、吟味方を中心とする一つのグループ(部門)とみられていたのではないでしょうか(吟味方は人数も多く、その半数は熟練の実力者で占められているのに対し、例繰方や赦帳撰要方には比較的若手の与力が配属されています) 町奉行所の役所部分は中央部に公用人の指揮する用部屋があり、それより奥(西側)には町奉行が政務を行う表居間や、主要な会議室(内寄合座敷、内座之間)などがあり、表(東側)の北部分には当番方の各詰所(与力番所、同心番所、年番部屋、若同心詰所など)、南側には吟味方の主導する公事吟味に関する施設(裁許所や詮議所と白洲、例繰方詰所、赦帳撰要方詰所、仮牢、公事人溜りなど)で占められていました。 吟味方は、単なる町奉行所の一分課ではなく、町奉行所の機能を二分する中核部門として位置づけられていたからこそ、山口の発言があったのではないでしょうか。 坂部能登守や天保改革期の町奉行鳥居甲斐守と鍋島内匠頭は、これを奉行の不正と断じて、幕閣に進達し、内与力を廃止しましたが、いずれも当人たちが辞めると、旧に復したといわれています。 有給の見習与力七人を含む与力三十人のうち、年番与力二人(幕末には三人)、宿直与力が十人以上(五つの番組から役掛のない若手の与力が二人ずつ交代で当番与力を勤める)。 (2019年7月30日加筆修正) みなさんは「物書同心」というと、どんなイメージを思い浮かべますか。 奉行所の片隅にある一室で、机の上に高く積み上げられた書類を横目に、一日中、黙々と書物をしている。 「物書」同心という呼称がそんな姿を連想させるためか、地味で軽いお役目、閑職、あるいは窓際族といった文脈で語られていることが多いように思います。 けれども「」をご覧いただければ分かるように、「物書同心」は「年寄役同心」に次ぐ町方同心の階級で、分掌・業務分担のようなものとは異なります。 物書同心は、若同心たちを指導・牽引し、奉行所の中核をなす存在だったのです。 なお「物書同心」に似た名称のものとして「年番書物方」や「吟味方書物(役)」などというものもありました。 こちらは実際の書記・記録係で、ほとんどが若手の若同心・見習同心たちでした(「」参照) 文政から嘉永ごろの町方与力同心の勤務歴を見ていると、本当に年功序列が徹底していることに改めて驚かされます。 一年目でいきなり筆頭与力になったわけです。 それもそのはず、鉄次郎はこのとき五十九歳。 安永四(1775)年に十九歳で見習与力となってから、じつに四十年の歳月が流れていました。 当時、鉄次郎より年長だったのは、壱番組支配与力の都筑兵右衛門・七十四歳と四番組支配与力の松浦弥二郎・六十八歳の二人だけでした。 他の二人の支配与力・嶋喜太郎(弐番組)と中島三右衛門(三番組)はいずれも五十二歳で、見習勤めに出たのも鉄次郎より後でした。 五番組次席与力の松原伴右衛門は四十五歳で鉄次郎より一回り以上も年下でしたから、長年老齢の父を補佐し、組内の世話役を事実上務めてきたであろう鉄次郎の支配役就任は当然のことだったのでしょう。 それにしても、親から子へ筆頭与力の座が直接受け継がれるケースはさすがに珍しかったと思います。 通常、親が与力を引退して、番代をすると、新米与力ですから、序列も下からのスタートとなるからです。 三田村鳶魚翁の最後の弟子といわれる故小川恭一氏によれば、旗本の事例ではありますが、嫡男が部屋住みのまま老衰死したケースもあるそうです。 体が動くうちは隠居をしたがらない武家の当主の姿が目に浮かびます。 老人が大切にされた時代。 親がいつまでも元気なのは喜ばしいことには違いありませんが、町方与力の場合、いつまでも親が現役にしがみついていると、子は見習から脱することができず、さぞかし悩ましかったことでしょう。 同心支配役を筆頭与力、支配与力とも称しました。 なお、組与力同心の「組」とは、南組北組というときの「組」と同じです。 北町奉行が遠山の金さんならば、北「組」の「頭(かしら)」は金さんで、ふつうは町奉行遠山左衛門尉組と称します。 その組与力同心を更に五つに分けたのが壱番から五番までの番組で、番組トップが支配(筆頭)与力ということになります。 どちらも「組」といいますから、注意が必要です。 (2018年2月9日加筆修正).

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