閑 さや 岩 に しみ入る 蝉 の 声 意味。 「閑さや岩にしみ入蝉の声」これを英語で言えますか? 英語になった日本の”あの”名文 [日常英会話] All About

(閑さや岩にしみ入蝉の声)「閑かさや」?、「閑けさや」?

閑 さや 岩 に しみ入る 蝉 の 声 意味

俳句は日本古来から伝わる、伝統的な表現方法の1つとして、現代になっても多くの人たちに親しまれています。 これまでに数多くの俳句が俳人により詠まれており、たくさんの作品があります。 その中でも 「閑さや岩にしみ入る蝉の声」は、馴染み深く、一度は耳にしたことがあるでしょう。 「閑さや岩にしみ入る蝉の声」 芭蕉が句をよんだ場所だそうです。 大垣は奥の細道のむすびの地ですが、こんな遠くから歩いて来たわけか。 元気だな。 — 片山 圭介 ksuke99 作者はどのような背景で句を詠んだのか、またこの俳句を口ずさんだ時の心情はどのようなものだったのでしょうか? 今回は、 「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者について徹底解説していきますのでぜひ参考にしてみてください。 閑さや 岩にしみ入る 蝉の声 (読み方:しずかさや いわにしみいる せみのこえ) という俳句を、みなさんはご存知でしょうか? こちらは、日本を代表する俳人 「松尾芭蕉」が詠んだ俳句です。 それでは、早速こちらの俳句について詳しく解説していきます。 季語 こちらの俳句に含まれている季語は 「蝉」で、夏の季語(夏を表現する言葉)です。 また、曾良の日記では芭蕉が旧暦の5月27日にこの句を詠んだことが記載されています。 参考までに、 グレゴリオ暦(現在の暦)で見ると 5 月 27 日は 7 月 13 日に当たり、夏であることが分かります。 松尾芭蕉が詠んだセミには、「アブラゼミ(斎藤茂吉説)」「ニイニイゼミ(小宮豊隆説)」の2説があり、一時期セミの種類を巡って論争になりました。 結局は、実地調査により ニイニイゼミであることが分かっています。 意味 この俳句の意味は、以下の通りです。 「なんて静かなのだろう。 石にしみ入るように蝉が鳴いている。 」 蝉の鳴き声がうるさいのに、どうして芭蕉は「閑かさや」と感じたのかという部分が不思議です。 しかし、何度か口ずさんでみると、騒がしい蝉の声を忘れてしまうほどの閑かな山奥で詠まれていることを感じます。 さらに、芭蕉自身がこの世とは思えない、とても静寂な空間に引き込まれて行く様子が感じ取れます。 何も聞こえない無の世界、つまり 芭蕉が己の心の中を見つめているのであろうとこの句から推察します。 それほどの無の境地の中で、芭蕉は何を考えていたのでしょう。 この句が詠まれた背景 芭蕉は1689年から門人の曽良と共に、江戸を出発し旅に出ます。 (芭蕉 左 と曾良 右 出典:Wikipedia) その旅は、150日間をかけて東北・北陸・関東地方を周遊するとても長いもの。 芭蕉は旅の途中で見た情景や心情を数多くの俳句として残しています。 こちらの句も芭蕉が、 山形県にある立正寺に立ち寄った時に詠んだものです。 この長い旅の間に詠んだ句を集めた作品が、有名な 「奥の細道」です。 その中でも「閑さや岩にしみ入る蝉の声」は、非常に優れた作品として親しまれています。 閑かさやの部分の初句切れ• 岩にしみ入る蝉の声の部分の暗喩• 蝉の声の部分の体言止め の3つです。 閑かさやの部分の初句切れ まず、閑かさやの部分にみられる初句切れ(切れ字)は、 余韻を表現する技法です。 初句切れにすることで俳句に「余韻ができリズムが生まれます。 つまり「閑だなあ・・・・・・・」ということ。 その後「岩にしみ入る蝉の声」と続き、余韻の中で味わう蝉の声をしっかり感じさせてくれます。 岩にしみ入る蝉の声の部分の暗喩 暗喩法とは 「まるで〜のような」と比喩する文章表現方法です。 この技法を使うことにより、詠んでいる状況や気持ちをイメージしやすくなります。 蝉の声の部分の体言止め 下句に体言止めを入れることで、俳句のインパクトが強くなります。 「石にしみ入る」ほどの声で蝉が鳴いていると表現されているため、「閑さや」という部分に 矛盾を感じます。 この部分が、この俳句を解読する際の重要ポイントです。 芭蕉は「暗喩」の技法を用いて、 精神的な「閑さや」を表現しています。 芭蕉がこの句を詠んだ山形県立正寺は、森深い静かな場所にある寺院。 蝉が鳴くと山に反響し、こだまとなって戻って来ます。 つまり、蝉の声がこだまとなり戻ってくるほどに、立正寺はとても閑かな場所にあるわけです。 そのような俗世の騒がしさから離れた、 異次元の閑かな世界に心が吸い込まれて行く様子をこの句では表現しています。 作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単に紹介! (松尾芭像 出典:Wikipedia) この句を書いたのは、有名な俳人である 松尾芭蕉です。 松尾芭蕉は、1644年に三重県伊賀市(当時の伊賀国)で生まれました。 本名は松尾宗房。 松尾芭蕉という名は、俳号になります。 芭蕉の実家は、平氏の末流に当たる血筋でしたが、身分は農民に過ぎませんでした。 13歳の時に父が亡くなり、兄が家督を相続。 しかし、決して生活は楽ではなかったと言われています。 18歳の時に 藤原良忠という人と主従関係を結び、小間使いとして働き始めます。 この藤原良忠は俳句を詠むのがうまく、芭蕉が俳諧の世界に足を踏み入れるきっかけとなりました。 同じ年に主人藤原良忠と一緒に 北村季吟の元に弟子入りをして、本格的に俳句の道を進んで行きます。 しかし、24歳の時に藤原良忠が亡くなるという不遇の出来事が起こりました。 これにより、芭蕉は俳人として一生を生きて行こうと決めたのです。 その後、京都ではちょっとした有名人となり、江戸に上京することを決意しました。 ですが土地柄が変われば、芭蕉を知る人は全くいなく、いろいろと苦労をしたようです。 ようやく江戸で認知されるようになった頃に芭蕉は俗世に嫌気がさし、旅に出て俳句を詠むことを決意しました。 これが、 奥の細道の誕生となります。 松尾芭蕉は、このように俳句の世界で生き、食中毒または赤痢により50歳でこの世を去りました。 松尾芭蕉のそのほかの俳句 (「奥の細道」結びの地 出典:).

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(閑さや岩にしみ入蝉の声)「閑かさや」?、「閑けさや」?

閑 さや 岩 に しみ入る 蝉 の 声 意味

松尾芭蕉の俳句を引きます。 閑けさや岩にしみ入る蝉の声 …蝉が鳴いている。 その声が岩にしみ入ってゆく…こういう情景(解釈)です。 ところが、最近、この解釈は間違いだ、という(或る)意見を読みました。 この(従来の)解釈では筋が通らない、とのことです。 誰もが知るように、蝉の声は大変やかましい。 一匹でも騒々しい。 他方、この句は、「閑けさや」とあります。 これが「蝉の声」(=やかましさ)と食い違う。 こういう指摘です。 …蝉がやかましい。 やかましすぎて岩の中にまで染み込んでしまうほどだ。 実に騒々しい…。 こうであれば首尾一貫します。 しかし、この句はそうではない。 やかましい、とは述べません。 「閑けさや」と述べます。 つまり、前後矛盾があります。 どうすれば矛盾をなくせるか。 そこで、次のように解釈します。 …閑かだ。 蝉の声が聞こえない。 蝉の声は全て岩にしみ入っているのだろう。 そのため、人の耳に届かないのだろう…。 この解釈で矛盾がなくなります。 つまり、蝉の声がない情景だということです。 或る意見は、この解釈が正解だ、と言います。 いかがでしょう、正しいでしょうか。 正しくない、と見る場合、どうすれば前後矛盾をなくせるでしょうか。 初案は、「山寺や石にしみつく蝉の聲」(『俳諧書留』曾良)であり、後には「さびしさや岩にしみ込む蝉の聲」(『初蝉・泊船集』)となり、現在のかたちに納まったのはよほど後のことらしい。 とあられられますです。 「山寺や石にしみつく蝉の聲」こちらのほうですと蝉のほうの声のほうが聞こえられましておられられます事のほうになられられますのかなと思いましたです。 「さびしさや」のほうでも聞こえられましておられられますように思いましたです。 所謂「閑けさや」のほうでも聞こえられましておられられますように思いましたです。 そちらのほうの「閑けさや」のほうの意味のほうは田舎のほうですので山寺のほうは本当に静かですけれども蝉のほうの声のほうだけは聞こえられましておられられますです。 みたいな事なのかなと思いましたです 「閑けさや」であって「静かさや」ではない、というのは、「閑」というのは心の中が平穏なのであって、現実に「音量が高い低い」というデシベルの問題ではない、ってことで、いいんじゃないでしょうか。 奥の細道は紀行文であって、句の前に「本文」がついていて、そこには、 「佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ」 とあるそうです。 「心が澄み行くようだ」っていう心象風景が「閑」だということで。 芭蕉はただの山道をハイキングしているわけではなく、山寺(立石寺)に参詣しようとしているわけです。 そのすがすがしい景色の中では、心が「閑」になり、普段だったらやかましいと思うような蝉の声も、岩に染み込んでいくように気にならなくなるなあ、いいなあこの風景、っていうことだと考えて、いいんじゃないでしょうか。 現実に「蝉の声は、聞こえていないはずだ、でないと静かなはずない」っていうのは、なんかとっても即物的な解釈で、どんなかなあーと思います。 ちょっと、「面白いようで、つまらない解釈」って感じがします。 私は伝統的解釈で妥当だと思います。 1)何をうるさいと受け取るか、感じるか。 一人山道を手甲脚絆の振り分け荷物で歩いている。 蝉、一匹かそれとも蝉しぐれか。 どちらでも。 静かな気持ち。 蝉なるうるさい鳴き声に閑けさを感じる。 十分あり得ます。 自動車やバイクをやかましくフカして走る音はうるさいですね。 しかし風や或は雷でも静かさを感じる感性はあり得ます。 閑かな山道に蝉。 その声も所の岩に染み込んでいくなぁって思い。 わたしはキャラバンでリュックですがそんな感じです。 2)クツワムシ。 ご存知ですか。 河原の葦の中にたくさんいて一匹でも大きな声。 これをうるさいと思う感性もあり、あぁクツワムシだなぁと思う感性もある。 田んぼや池で口の青い大きな蛙。 牛蛙という。 水の面に顔を出して鳴く。 うるさいだろうか。 古池に蛙飛び込む水の音。 これも音があって閑けさを詠んでいますね。 山道で蝉が聞こえなくても、いえ蝉が聞こえるから更に閑けさが感じられる。 そういう感性ですね。 理屈ではないですね。 秋深し隣は何をする人ぞ 向島の芭蕉庵。 或はあの時代に歌詠み人なら、路地の二軒長屋でしょう。 そんな人が隣の人の仕事や生活を知らないはずはない。 やはり生活の音がしてくる、閑かだなぁと思う。 これは実感を同感することですよ。

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「閑かさや」の句に秘められた真実 (2013年10月25日)

閑 さや 岩 に しみ入る 蝉 の 声 意味

「発電所」や「節電」は聞いたことがあるけれど、「節電所」は知らないな。 と思っていたら、各ご家庭で節電するから、その 家庭が「節電所」なんだそうです。 なーんだ。 そして、待機電力などをなくせば、年間1万数千円くらいは「節電」できます、というような内容の特集をやっていました。 電力不足の折り、東京電力から頼まれたのだろうか?いや、東京の人は、頼まれなくてもこういった企画は割と好きなようなんですよね、どうも。 まあ、タイムリーな企画と言えるでしょう。 さて、その「節電所」、ためしにGoogle検索してみると、ナント 1万1600件も! 出てきました。 ビックリ! あ、でも、節電のためにはパソコン使ったり、テレビ見てたりしちゃあ、いけないのか。 プチッ・・・。 以前、書いたかも知れませんが、JR大阪駅北側のヨドバシカメラに行った時に、改めて感じたのは、 「地上8階建て(ぐらいだったと思う)のこの巨大なビルで売っている品物は、全部、電化製品、つまり電気を必要とする物なんだなあ」 ということでした。 (実際はヨドバシカメラのビル、コムサデモードの店舗やレストランなども入っているので、全部電化製品・・・ではないのですが。 ) 知らず知らずの間に便利さを追い求めていたら、こんなになっちゃいました、という感じ。 それと、やっぱりヘエーと驚いたことは、現在、 関西の電力供給は、原子力発電によるものが、50%を越えているんです。 え!いつのまに!?と思いました。 小学校の社会科で習った時は、たしか7〜8%。 10%に満たなかったのですが。 その時は、 「21世紀には、すべて原子力発電になる」 というようなことも言われていたような・・・。 あ、もう21世紀か。 「節電」、頑張りましょう。 なぜかというと、 「幸せっていうのは、等身大より大きいから幸せなんで、等身大だったら、幸せじゃないだろ!」 というようなことを言っていましたね。 そういわれてみればこの「等身大の〜」という表現、割と耳にする気はします。 また、インターネット検索Google、してみました。 「等身大の幸せ」= 140件 「等身大の項福」= 9件 「等身大の」= 4万2300件(8月14日調べ) ワオー。 むっちゃ多い!!どういうふうな「等身大」か見てみると、 「等身大の〜」 予科練、立体表示、主人公、イラク、「いま」、「フォト&エッセイ」、泉、ダンシング・サンタクロース、中国、氷像、ヒロイン、アフリカ、芸術、17歳、ジーンズ、自分自身、インテリア、物語、自分、ハリウッドなどなど・・・。 この中で、 「氷像」「ダンシング・サンタクロース」というものは、 物理的に、人間の身長ぐらい、という意味での「等身大」ですが、その他は 「自分の枠の中で」というような意味で、 これがタモリさんが嫌っている「等身大」なんでしょう。 これを見ていて感じたのは、最近(と言っても、2,3年前から)若者の間で流行っている、 「素(す)の自分」 「自分探し」 というようなことと、 根っこは同じように感じます。 「素の自分」なんていうのは、飾らない・もともとの自分ということでしょうが、そんな当たり前の事を、わざわざ言わなくてはならないのは、如何に普段、「素」でない自分を装って生きていかなくてはならないか、ということの裏返しではないでしょうか。 それだけ若者が生きにくい世の中ということなんでしょうかねえ・・・。 「等身大の幸せ」などと言っている若者に腹が立つタモリさんの気持ちが、分らないでもありませんねえ。 その後、 『NHK発音アクセント辞典』巻末の方を見ていたら、 「複合名詞の発音とアクセント」についてまとめて載っていました。 それによると、 複合名詞を三つの型に分類して、 629語の実例を並べているのです。 ただ、ここには、 「なぜ、連濁するのか」 「なぜ、コンパウンドするのか」 といった疑問に対する答えは記されていません。 実例を示しているのみです。 しかし、これは大変利用しやすい資料です。 と言うのは、ここに挙げられた複合名詞を見て、連濁しているかどうか、コンパウンドしているかどうかを調べれば良いからです。 さっそくチェックしてみました。 複合名詞は、Aという名詞とBという名詞がくっついて、 「A+B」という形の名詞になっているものですね。 その際に、「もとは清音だったBの最初の一文字」が「濁音」になっていれば「連濁」です。 ここでチェックするのは、まずその点です。 次にその 連濁したものが、「鼻濁音になっているかどうか」をチェックします。 その際には、Bという名詞が 「連濁ではなく最初から濁音」のケースも一緒にカウントして、鼻濁化しているかを見ます。 まず、 連濁するかどうかですが、これは Bの頭の音が「か行、さ行、た行、は行」に限られます。 だからチェックは楽だね。 か行の複合名詞は、 「か」=63、「き」=51、「く」=9、「け」=26、「こ」=29 さ行は「さ」=21、「し」=106、「す」=12、「せ」=21、「せ」=14 た行は「た」=24、「ち」=18、「つ」=1、「て」=35、「と」=5 は行は「は」=25、「ひ」=12、「ふ」=27、「へ」=5、「ほ」=18 でした。 「し」が多いですね。 楽とは言っても結構ありますな。 この中で 「鼻濁音か濁音か」問題が生じる、Bが濁音「か行」のものは次の通りです。 (濁音) (鼻濁音) (もともと濁音) 学校、合唱、ガラス 議員、議会、業者 漁業、漁船、銀行 芸術、言語、現象元素 画、街、外交、学、楽、 学士、型、楽器、 がるた 側、為替、岩、 議員、業 具合、軍、芸、外科、劇 限度、語、号、 (連 濁) 会社、顔、係、傘、際 口、組、雲、暮らし ということは、 「連濁でBが濁音になったものは、すべて鼻濁音で発音する」ということですね。 そして、複合名詞で Bの発音が「濁音」のものは、「複合する前から、もともとBが濁音表記」なのです。 続いて、「さ行」以下を見てみましょう。 これはポイントは 「連濁するかどうか」です。 連濁するものの方が数が少ないので、 「連濁」のものだけをピックアップしましょう。 細工、砂糖、試合、じま(縞)、じゃくし(杓子)、茶わん、じょうゆ(醤油)、汁、汁粉、水晶、づえ、住まい、相撲、つる(鶴)、草子、大将、玉、鉄砲、時計、年、羽織、針、半紙、日和、節、普請、布団、部屋、奉公、包丁、骨、本、 以上の 32語です。 「か行」の連濁も合わせると、全部で41語です。 Bが濁音なのは(連濁も含み)全部で181語ありましたから、 「複合名詞の濁音に占める連濁の割合」は、22,7%となります。 全体でここに取り上げられた複合名詞は、最初に書いたように 629語ですから、ここに取り上げられた 「複合名詞における連濁の割合」は、6,5%ということになりますね。 コンパウンドの問題は、複合名詞はほとんどコンパウンドしていますね。 A型が多いのではないでしょうか。 調べてみると、 A型アクセント415語ありました。 66,0%、ほぼ3分の2ですね。 というところで。 そのドキュメントのナレーションを「ニューススクランブル」で読みました。 ハイビジョンカメラで撮影した花火は、それはそれは美しいものでしたが、その原稿の中に、青年が働く花火製造所の名前が出ていました。 「堀内煙火店」 この 「煙火」というのは 「えんか」と読み、 「花火」のことを指す業界専門用語なんだそうです。 初めて耳にしました。 「えんか」というのは「演歌」「塩化」くらいしか知りませんでしたが、今このワープロソフトで「えんか」と打ち込んで変換しようとすると、 「演歌」「塩化」「円貨」「艶歌」「円価」「煙火」「煙霞」「煙霞」「縁家」「嚥下」 とズラッと出てきました。 Googleで「煙火」を検索してみると(8月11日) 4万9000件も出てきました。 そこで、 「日本語のページ」に限定して同じく「煙火」を検索すると、 9860件でした。 ということは、おそらく 「中国語のページ」で「煙火」は4万件近く使われているのでしょうね。 しかし日本語でも1万件近いですから、相当使われていると見ていいでしょう。 でも、一般的ではないですね。 『日本国語大辞典』を引いて見ました。 「煙火」 (1) 煙と火。 (2)飯をたく煙(3)のろし。 載ってはいたものの、やはり一般的ではないということにかわりはないでしょう。 なお、取材したディレクターによると、 「風上から撮った映像は、とても綺麗でしたが、風下のカメラは、煙ばかり写って、全然使えませんでした。 」 ということで、花火と言うと、大空に上がった「火」の方に注目が行きますが、地上の打ち上げ地点近くの「風下」では、「煙」の方が「主体」なのですね。 そういう意味での、 「煙火」 納得が行きますね。 それと、セミは例年と同じようにやかましく鳴いています。 新人のKアナも、 「朝から本当にミンミン鳴いて、うるさいんですう!」 と言っていました。 しかし、ちょっと待った! 「本当にセミは、ミンミン鳴いてたのかい?」 「は?鳴いてましたけど」 「ミンミン鳴くのはミンミンゼミ。 この辺で鳴いているのは、クマゼミかアブラゼミだからミンミン鳴いているか、よーく聞いてごらん」 と、意地の悪い先輩は言うのでした。 あ、私か。 でも今年は例年とちょっと違うんです。 この所、大阪市内で一番はびこっていたのは、クマゼミ。 大きなセミで、鳴き声はシャーシャーという感じ。 私が小学生の頃(30年ぐらい前)は和歌山の南の方にしかいなかったクマゼミですが、都市の温暖化の為か、大阪市内でも見掛けるようになってもう10数年は経ちますね。 ところが今年は、クマゼミだけでなく、本当にミンミンゼミやアブラゼミ、ツクツクボウシの鳴き声が聞こえ、そして夕方になると、ヒグラシの、 「カナカナカナカナ・・・」 という、あの物哀しい鳴き声までも聞こえてくるのです。 ヒグラシなんて、山の方に行かなきゃ、いなかったと思うのですが。 セミの鳴き声をいろいろと表現してみると、 「グワシャグワシャ、ガシガシ、シャワシャワ、ジンジンジンジン」 といったところでしょうかね。 ここでもう一つ、セミと聞いて思い浮かんだのが、芭蕉の、 「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」 の句。 この句で思い出すのは、この「蝉」は単数か複数かという問題。 英訳する時には「S」を付けるのかどうかです。 これは同じく芭蕉の 「古池や 蛙(かわず)飛び込む 水の音」の「蛙」にも同じ事が言えるのですが。 この「閑かさや・・・」の句を英訳した例をネットで見つけました。 山岸文明さんという、おそらく静岡県の沼津高専の英語の先生と思われる方(1943年生まれ)のホームページ「現代俳句英訳の試み」に、載っていたこんな文章です。 芭蕉の有名な句、「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」を、ドナルド・キーン氏は次のように英訳した。 Such stillness- The cries of the cicadas Sink into the rocks. 見事な英訳である。 日本語の五七五を英語でも同じ音節に置き換えている。 ただし、一行目は三音節で、必ずしも五音節にこだわっていない。 そこの空白をダッシュで補って、余韻の効果を生んでいる。 キーン訳はまた、「岩にしみ入る蝉の声」を「蝉の声が岩にしみ入る」という順にしているが、こうした自由な入れ替えによって、リズムが生まれたり、英詩らしくなったりする場合があり、原句にとらわれ過ぎないことが、俳句を英訳する際に大切なことのように思われる。 それにしても、キーン訳は、原句の四つのサ行音を六つのS音によって表現して、静寂感を感じさせる工夫や、強弱のリズム感など、さすが芭蕉に傾倒したキーン氏ならではの、文学史上に残る名訳といってよい。 うーん、たしかにお見事、シンプル・イズ・ベストですね。 これによると、セミの声は「cry」=「叫ぶ」という単語で表されていますね。 それはさて置き、外国人はセミの声をどう聞いているんでしょうか?以前、 外国人にとってスズムシなどの虫の声は、単なる「騒音・ノイズ」にしか聞こえないというのを、どこかで聞いたことがありますが、セミの声はどうなんでしょうか?どのように聞こえていて、セミの鳴き方をどういった言葉で表現するんでしょうか?「駅前留学」している妻に、 「外国人の先生に聞いてきて!」 と頼んだところ、英国人と米国人講師に聞いてくれました。 結論は、 「普通は、何とも言わない。 あえて言うなら、ジージーか、ギーギー。 セミの声は、虫の声と同じく、ノイズ扱い。 」 だそうです。 えー、でも種類によってセミだって鳴き方が違うから全部まとめて「ノイズ扱い」というのは 解せんなあー。 さて、セミと言えばよく、 「地中に何年間もいて、地上に出てきてからは寿命が一週間というのは、短過ぎてかわいそう」 という声を耳にします。 しかし本当にそうなのでしょうか? 土の中に何年もいるのであれば、セミにとってその人生ならぬ「蝉生」において大きなウエートを占めているのは、地中にいる数年間で、地上に出てからの1週間というのは最晩年、余生のようなものではないのか?可哀相、というのは、あくまで人間の勝手な価値観による判断で、情緒が入りすぎではないのか?というふうな事を考えてしまいました。 人間で言えば人生の最後に青春がやって来るような感じなのでしょうかねえ。 よくわかりませんが。 そんな事を考えながらセミの声を聞いておりますと、汗も引いてまいりました。

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