ブッダ かず ひさ。 かずのすけ解析『おひさまでつくったクレンジングオイル』を使ってみた!口コミレビュー

こころの時代

ブッダ かず ひさ

この日味噌ラーメンの気分だったのでこちらにも味噌あったと思い出し再訪してみました。 先客2名。 後客1組。 ぽつぽつというとこでしょね。 で注文は「味噌ラーメン700円とライス50円」を。 約7分ぐらいで配膳。 普通かな? ではスープから。 たまに出会う一瞬だけ醤油香る味噌味のスープ。 チューシューの煮汁とかを味噌だれに入れてるのかもしれませんね? やや油は多めですね。 昔からあるような味噌ラーメンです。 出汁はほぼ動物系だけのような気が。 やや黄色ががかったどちらかの製麺所のものでしょうね?普通に美味しいです。 具は炒め野菜にチャーシューとメンマ少々。 こちらも普通かな? ライスもラーメン屋さんでは標準的でしょうね。 この日は女性2人のオペレーション。 なにかほっとするような味と雰囲気。 若者向けのエッジの効いてる店と違ったよさのある店なんでしょうか。 根強いファンがいそうなお店です。 なにせこの界隈はラーメン店ひしめいてますんで。 こちらは一度だけ伺って「肉中華」を食べたことがあります。 マイレビさまもお気に入りなので 配達の帰りにおやつがわりに寄ってみました。 修行として同じもの食べてもみようと。 14:50ぐらいで中休みギリギリでしたが快く注文うけていただきました。 後客もおひとり。 もちろん注文は「肉中華800円」です。 こちら 下ごしらえ(下茹で?)したお肉をスープで炊きますので若干時間がかかりますね。 麺もある程度お肉の調理進んでから 投入でした。 ではまずスープを。 はるか昔に食べたときはしょっぱく感じた記憶ありますが 今回はぎりぎりOK! 肉の出汁もスープにとけこんで美味しいです。 たぶんこの大量の青ネギでバランスがとれてるのかもしれませんね。 で 麺。 中太ですかね。 しっかりとして茹で加減もいいです。 この太さは濃い目のスープには相性いいんじゃないでしょうか。 私的には味の濃い目の煮玉子より 生の卵黄を真ん中にトッピングで混ぜ合わせ食べてみたいです。 750円で食べられるとCPは3. 0越えますが。 このHTMLタグをブログに貼り付けると、お店の地図や情報を掲載することができます。 ラーメンひさ野 関連ランキング:ラーメン 蔵王駅、山形駅.

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一体どこの山のウサギが美味しいのか?: 電磁波過敏症対策ネット健康情報サロン

ブッダ かず ひさ

ブッダ(お釈迦さま)とは? 「 ブッダ」とは、仏のさとりを開かれた方のことで、 お釈迦様のことです。 約2600年前、仏教を開かれ、世界の 三大聖人のトップにあげられます。 ブッダは神ではなく、お父さんもお母さんもいる歴史上の人物です。 ブッダは、一体どんな方で、どんなことを教えられたのでしょうか? ブッダが悟りを開かれるまでにどんなことがあったのかを知れば、 ブッダがどんなことを教えられているかが分かります。 ブッダの誕生日は4月8日 約2600年前、インドのカピラ城に 浄飯王と マーヤー夫人という妃が住んでいました。 2人には長い間子供がなかったのですが、 もう子供ができないかと思っていた頃、 マーヤー夫人が身ごもられました。 今日同様、マーヤー夫人は出産のため、隣の国の実家に帰ろうとしたところ、 ちょうど ルンビニー園という花園にさしかかった時、 産気を感じ、そこで出産されました。 時あたかも 4月8日、ルンビニー園には 一面花が咲き誇っていました。 そのため今日でも、お釈迦さまの誕生日、 4月8日を「 」といって祝います。 マーヤー夫人は、もう実家へ返る必要がなくなり、 カピラ城へと帰ってゆきました。 お母さんが亡くなる ところが、高齢で産後の経過が悪かったのか、 1週間後に亡くなってしまいます。 浄飯王は、最愛の妻が亡くなった悲しみもありましたが、 もう無理かと思っていた跡取り息子ができたということでは、 大喜びでした。 シッダルタ(悉達多)太子と名づけてかわいがりました。 やがてかわいがっているうち、 「見れば見るほど賢そうだ。 さては将来大物になるに違いない、 どんな立派な人物になるのだろう」 当時、国一番の師・アシダ仙人を城へ呼び、 聞いてみることにしました。 アシダ仙人の予言 ところがアシダ仙人は、じーっとシッダルタ太子を見ていたと思うと、 やがて涙を流しました。 知り合いに自分の子供を見せたら、 急に泣き出したとしたら、何事かと思います。 浄飯王も「このめでたい席で不吉な涙を見せるとは何ごとか。 事と次第によっては許さん」 激怒して刀に手をかけました。 アシダ仙人は 「これはこれは申し訳ございませんでした。 私が見たところ、太子様は一目でただ人ではないと分かりました。 将来は、全世界を支配する伝説の 転輪王(てんりんのう)となられるか、 無上のさとりを開かれる仏陀となられましょう。 いずれにしろ、二度とこの世に現れないようなお方です。 しかも、どちらかといえば、私には 仏陀(ぶつだ)になられるように感じます。 ところが私はもう年ですから、この方が将来無上のさとりを開かれて、 真実の教えを説かれるころには、もうおりますまい。 目の前にそんな真実を説かれる方を目の前にしながら、 その真実が聞けないなんて、なんと残念なことかと、 涙せずにはいられなかったのです」 それを聞いた浄飯王は、 「なんだ、そういうことであったか、ならば許そう」 と大変満足したのですが、 それならぜひとも転輪王になって欲しいと、 教育によって何とかしようと思ったのです。 ブッダの才能 浄飯王は、シッダルタ太子が幼稚園にもあがらないうちに 文武の家庭教師をつけました。 当時国一番の学者であった バッダラニーと、 国一番の武芸の達人、 センダイダイバーの2人です。 今で言えば、ノーベル賞学者とトップアスリートを 家庭教師につけて英才教育を始めたようなものです。 バッダラニーの申し出 やがてしばらくすると、バッダラニーが 「 どうかやめさせてください」 と王様のところへやってきました。 浄飯王は驚いて 「どうした、何か太子がいたずらでもするのか? 給料が足りないのなら、2倍にしてやる」 と言うと、バッダラニー、 「いえいえ、王様、とんでもございません。 太子様は、大変まじめに学んでおられますが、 一を聞いて十を知り、十を聞いて百を知る大変聡明な方です。 最近は何か私の知らないことまで知っておられるようで、 太子様の質問に答えられません。 もう私には教えることがありませんから、どうかやめさせてください」 と言います。 浄飯王は 「まあそれなら仕方ない」 とやめることを許したそうです。 センダイダイバーの申し出 またあるとき、センダイダイバーがやってきました。 「私もついでにやめさせてください」 「一体どうした? 」 浄飯王が尋ねると、 「実は私は、特に弓の達人と言われていますが、 そんな私でも、100回射れば1発は外します。 ところが、 太子様は百発百中すべてど真ん中を射ぬかれる。 乗馬をしても、私は息切れしながらやっとやっと乗りこなしますが、 太子様はどんな暴れ馬も乗りこなされる。 もう教えることは何もありません。 どうかやめさせてください」 それを聞いた王様は、 「まあそういうことなら仕方がない」 とやめさせたそうです。 それ以降、太子は一人で学問に励んだり、 武芸の鍛錬をされるようになりました。 ブッダの悩みと結婚・子供 ところが成長するにつれ、 太子は物思いにふけられるようになりました。 浄飯王は、アシダ仙人が言っていたことを思いだし、 心配になってきます。 何度も理由を尋ねるのですが、 憂鬱な太子は何を聞いても答えません。 そこで浄飯王 「太子もそろそろ年頃だし、きっとお嫁さんが欲しいんだろう。 私の時がそうだった」 と、妻をめとらせることにしました。 そこでシッダルタ太子は19歳のとき、 国一番の美女といわれた をお嫁にもらいました。 するとしばらくは明るい太子になったのですが、 それも一年間だけでした。 やがて子供が生まれると、太子は「」と名づけています。 「 ラーフラ」とは「 束縛者」という意味です。 子供が生まれると、何とか子供に健康に育ってもらいたいと、 自分がやりたかったことを我慢して、 お金と時間を使って子供を育てるので、 束縛されて苦しみますよ、ということかもしれません。 そして太子はまた、憂鬱な生活に入ってしまいました。 毎日遊び暮らす…… 浄飯王は、仏のさとりを悟ろうなどという望みをなくさせなければなりません。 一体何を悩んでいるのだろう。 金か、おいしい食べ物か。 色々与えてみますが、何を与えても、太子の顔色は晴れません。 太子の悩みは、浄飯王の考えていたことではなかったのですが、 普通、人が欲しいと思うありとあらゆるものを与えて尽くしてしまいます。 そしてついに浄飯王は、季節毎に一番快適に過ごせるように、 四季の御殿をつくらせ、500人の美女をはべらせて、 太子を明るくしようとしました。 あなたはもし豪邸で、毎日仕事もなく、美味しいものを食べ、 ずっと遊んで暮らせるとしたら、うらやましいでしょうか? 太子の悩みはそんなことではなかったので、 まったく悩みはなくなりませんでした。 一体太子の悩みは何だったのでしょうか? ブッダの願いとは? やがてある日、シッダルタ太子は、浄飯王に手をついて、 「 私をこの城から出させてください」 とお願いに来たのです。 浄飯王は驚いて、 「四季の御殿も建ててやったし、 五百人の美女もはべらせた。 美味しいものを食べて毎日遊ぶだけなのに、 一体何が不足でそんなことを言うのか?」 「お父さん、実は 私の望みは3つあります。 それさえかなえてくれるなら、城を出なくてもかまいません」 はじめて、その悩みを打ち明けました。 「 1つ目の願いは、いつまでも今の若さで年老いないことです。 2つ目の願いは、いつも達者で病気で苦しむことのないことです。 3つ目の願いは、死なない身になることです」 それを聞いた浄飯王、 「それは、どんな権力をもってしても、どうしようもない。 年をとれば、病気になるし、やがては死んでいかねばならない」 「私はそれが悩みなんです。 老・病・死、これが解決されなければ、 何のために生まれてきたのかわかりません。 死ぬために生きているようなものです。 これを解決するために、城を出させてください」 太子が言うと、 「それはどんな人でもさけられないことなのだから、 何とかあきらめて私の後を継いでくれないのか……」 と浄飯王は、城を出たいという太子の願いを 一旦保留にしたのでした。 東の門 はじめ、城の東の門から外に出てみると、 そこには今まで見たこともないような人が、よろよろと歩いていました。 肌はしわより、腰は曲がり、杖をついています。 おつきの者に 「あれは一体何者だ? 」 と尋ねると、 「あれは 老人でございます」 「老人とは何か」 「はい、人は年を取ると、あのような老人になるのでございます」 「何!?それは王でもなるのか」 「はい、申し訳ございません。 王様といえど、年がいけば、必ず老人にならねばなりません」 これを聞いたシッダルタ太子は、ショックでその日は元気をなくし、 城へ帰ってしまいました。 南の門 しばらくたって城の南の門から出てみると、 またもや、見たことのない人が、むしろの上に横たわっていました。 体はがりがりにやせ細り、うめき苦しみながら、 虚空をかきむしっています。 「あれは一体何だ」 「はい、あれは 病人でございます」 「人は老い、必ずあのように病にかかって苦しまねばなりません」 「何!?それは王でもか」 「はい、申し訳ありませんが、 王様といえども、やがて病にならねばなりません」 またもやショックを受けたシッダルタ太子は、 外へ出る元気をなくして城の中へ帰ってしまわれました。 西の門 またしばらくして西の門から出ると、 また見たこともない人が運ばれて行くのを目撃しました。 骨と皮ばかりにやせ細り、全く動かなくなった人が、 悲しそうにすすり泣いている人たちに囲まれて、 ゆっくりと運ばれて行きます。 今でいう、葬式の行列でした。 「あれは一体何だ?」 「はい、あれは 死人でございます」 「死人?何だそれは」 「はい、人はやがてあのように、必ず死んでいかなければなりません」 「何!?それは王でもか」 「はい、申し訳ありませんが、 王様といえども100%死んでいかなければなりません」 これを聞いたシッダルタ太子は、今までで一番の大きなショックを受けて、 もはや外へ行く元気はなく、そのまま城へ帰ってしまいました。 北の門 それからまたしばらくして今度は北の門から出てみると、 そこには、老いと病と死の問題を解決しようと している 修行者がいました。 それを見たシッダルタ太子は、 内心、まさに人生は、老いと病と死の問題を解決せねば、 大変なことになると思ったのです。 普通なら「 今さえ楽しければいいや」 と思ってそこまで考えないのですが、 よく考えて見ると、すぐに消える、 一時的なでは、誰も満足できません。 それなのに、やがて人生はあっという間に過ぎ去り、 老い、病にかかり、死んでしまったら 一切のが崩れてしまいます。 このことは、人生を真面目に見つめないと、 なかなか起きてこない悩みです。 が崩れてから、それに苦しみ悩む人はあるでしょうが、 シッダルタ太子は、が崩れてからではなく、 まだ若く、能力もあり、欲しい物は何でも手に入るなときに、 人生の本質を見抜かれたのです。 それで、この解決を求めさせてくださいと、 お父さんに言われたのでした。 ブッダの出家 太子の出城の願いは差し止められ、 これまで通りの同じ毎日が繰り返されていたのですが、 どんなに健康や財産、地位、名誉、妻子、才能などに恵まれていても、 やがてすべてに見捨てられる時がくることは避けられません。 どんな幸福も続かない人生のすがたを知っておられたシッダルタ太子は、 もはや心からの安心も満足もできませんでした。 「 どうすれば、崩れない本当のになれるのだろう?」 シッダルタ太子の、真実の幸福を求める気持ちは、 日に日に強くなってゆかれました。 やがてある日の夜、シッダルタ太子は四季の御殿で目を覚まされました。 そこには昼間、美しく着飾って踊っていた女たちが、 みっともない様子で寝ていたのです。 太子は幻滅を感じ、深くしました。 「 私はだまされていた! これこそ本当のすがたなのだ。 こんなことをしている間に、もう結婚して10年が過ぎ、 あっという間に29歳になってしまった。 こんな所でうだうだしていたら、 私は何のために生まれてきたのか? このままでは生きている意味がなくなってしまう」 シッダルタ太子はもう誰にも言わず、 「 健陟(カンタカ)」という白馬に乗って出ていってしまいました。 ときにシッダルタ太子、29歳の2月8日のことでした。 これが有名な「 出城入山(しゅつじょうにゅうせん)」です。 ブッダ捜索作戦 翌朝、城ではてんやわんやの大騒ぎです。 浄飯王は 「お前ら500人もいて、1人も気づかなかったのか。 何をやっているんだ」 と激怒すると、 (憍陳如)という人が現れて 「どうか私に太子様を探させてください」 と申し出ました。 「おお、探してくれるか」 喜んだ浄飯王は、キョウチンニョをはじめとする五人を使わし、 全国を捜索します。 やがてついに、している太子を発見できたのです。 キョウチンニョは、尋ねました。 「 世の中には、の動機に4通りあると聞いています。 長い病気の苦しみで、もはや喜びを見いだすことができないとか、 老人になって体が動かず、希望を失ったとか、 お金や財産を失い、生活に困っているとか、 家族を亡くして世をはかなむからと聞いています。 ところが、 太子様は4つともあてはまりません。 若く、健康で、勉強もでき、運動神経も抜群でらっしゃる。 そしてお金はいくらでも手に入る。 ご家族はみなさん健在。 なぜそれらの楽しみを捨てて、 一衣一鉢の姿で遠いさとりを求められるのでしょうか?」 すなおな疑問をたずねてみました。 なぜシッダルタ太子は楽しみを捨てて悟りを求めるのか するとシッダルタ太子は、 「 そなたがたには あの激しいの嵐が分からないのか。 一切は続かないのだ。 どんなに今楽しいと思っても、 やがて必ず衰え、ほろんでいくのだ。 快楽のかげには、の響きがこもってを感じるではないか。 美女の奏でる音楽や歌は、欲をもって人を惑わすのみだ。 欲に迷わされているうちに、人生は、 夢のように幻のように消えていってしまうのだ。 いつまでも若いままでいたいと思っても、 若い時はあっという間に過ぎ去って、 老いと病と死のために すべてに裏切られてしまうのだ。 そなたがたにはまだ分からないのか!」 と一喝されたのです。 お金も財産も、地位や名誉も、目の前にあるときは、 意味に満ちあふれているように見えるのですが、 やがて老と病と死によって、必ず崩れ去ってしまいます。 せっかく苦労してかき集めても、最後裏切られるときには、 苦労の意味がまったく分からなくなってしまいます。 王様の太子として生まれ、勉強も一番、スポーツ万能、 欲しい物は何でも手に入り、国一番の美女と結婚して、 将来の地位も名誉も約束されていたお釈迦さまも、 やがては崩れてしまう幸福では、 本当の満足はえられないと知っておられたのです。 キョウチンニョたちも、言われてみれば確かにそうだと深く納得し、 城へ帰ると浄飯王に、太子様と共にしたいと申し出て、 共にに励むようになっています。 仏のさとりを開かれる そしてお釈迦様は、私たちが想像もできない 厳しいを6年間なされ 35歳の12月8日、ついにを開かれました。 35歳で仏のさとりを開かれたお釈迦様は、 80歳でお亡くなりになるまでの45年間、 すべての人が、本当のになれる道一つを 説き続けていかれました。 これを今日、仏教といわれます。 ですから、 仏教を聞けばどんな人でも老いと病と死を超えた 絶対変わらない絶対の幸福になることができるのです。 ではどうすればその本当のになれるのか ということについては、仏教の真髄なので、小冊子とメール講座にまとめました。 一度見ておいてください。 メニュー•

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初期仏教 ブッダの思想をたどる

ブッダ かず ひさ

このブログは2500年以上も前に人の抱える苦についての真実を明らかに悟ったの教えを、少しでも多くの人に伝える事を目的としています。 私も数年前までは、まるまる苦を抱える無明(無知)の凡夫でしたが、本物の教えに触れることで、明らかに自覚できる水準で苦を減らすことが出来ました。 日本ではと言えば、仏像を拝んで位牌に線香を上げるおじいさんおばあさんがやっている習慣とか、法事でお寺に行って良く意味の解らないお経を聞くものだと見られているのではないでしょうか。 しかし、本当のの教えは生きている人達のために、 今ここでするべきことを示したものです。 生きていれば必ず苦しみがあります。 の教えは卓越した観察力で、科学的な検証法を用いた 生きている人の苦を減らすためのものです。 世俗の感覚が邪魔するので、難解な数学の様にすぐには理解、納得出来ないかもしれませんが、極めて客観的に事実を見ると、本当の事しか述べられていないことが見えてきます。 対象とする読者は、本人の教えを全く知らない人から、ある程度の知識がある人まで全ての人です。 このブログではなるべく簡単な言葉を使いますが、内容は深遠なので本当の意味で理解する(見える)ためには何度も読む必要があるかもしれません。 もちろん一度で納得出来る人もいるでしょう。 これまでに読者の方から「以前読んだときは大して心に響かなかったが、先程同じ話を読んだら本当にハッとさせられました。 」と言う感想を何度か頂いております。 の教え通りに考え方と普段の生活を改めれば、実際に苦しみが減り、遂には全く苦しみのない境地に至るとが断言しています。 絵空事でない実利のある教えであり、本当に価値のあるものであることを知るのに、このブログがお役に立てばそれ以上のことはありません。 読み方としてはからご覧になって頂いても、左のサイドバーのカテゴリから興味のある記事だけご覧になって頂いても全く問題ありません。 もう少し詳しい話、エッセイ的な話もあります。 どうぞ。 じん mucunren 一区切りついたと言ったブログですが、とても大切な教えが抜けていましたので、今回は番外編です。 これはがカーラーマ一族に教えた内容で、の一番弟子で智慧第一と呼ばれる阿羅漢の尊者は、これが一番貴重な教えだと言ったと伝えられています。 下記の十項目の教えです。 1.みんなで言い伝えてきたからといって信じてはいけない。 2.永く伝承してきたからといって信じてはいけない。 3.評判になっているからといって信じてはいけない。 4.テキスト(経典)にあるからといって信じてはいけない。 5.理論に合っているからといって信じてはいけない。 6.哲学に合っているからといって信じてはいけない。 7.常識だからといって信じてはいけない。 8.自分の考えに合っているからといって信じてはいけない。 9.信頼できそうな人の話だからといって信じてはいけない。 10.自分の師や僧の言葉だからといって信じてはいけない つまりは「が言ったから」と言う理由で信じるな、と言っているのです。 これは「信じるものは救われる」と言う宗教では考えられない事ではないでしょうか。 これはの教えの一番の特徴で、「現実を良く見て、観察、体験できない、あり得ない事は誰の言葉だろうと、どんな理屈があろうと信じてはいけない」と言う訓辞です。 この様な考え方、方法論は現代科学と全く同じと言えます。 マが科学と異なるのは、観察対象が現代科学が扱うような無常のものの扱い方、法則ではないことです。 つまり、生きる上で発生する苦を減らす事を目的としていおり、そのために必要十分な教えだけがある点です。 また、一方では「どのような教えだろうと滅苦に繋がる教えは私の言葉に一致する」とも言っています。 の教えを学ぶ人で一番陥り易いのは、僧(お坊さん)なら1と2と4、普通の在家の人なら7から10全てでしょう。 「有名なお坊さんが言うんだから間違いない(はず)」とか、「このお坊さんは好きだから信じる」と言う間違いを犯す人はとても多いのではないでしょうか。 実はそう言う信用の仕方には、滅苦の実感や体験に基づく根拠は何も無いのです。 ですからそのお坊さんがもし故意だろうと無自覚だろうと間違った教えを言っていれば、滅苦にならない実践をして時間を無駄にする事になります。 は既にこの事を2500年以上前に予測していた訳です。 その慧眼には全く感服しますが、その智慧もまたならではと言う事が出来るでしょう。 もしの教えを学んでいる人で、いつまで経っても、それこそ十年以上とか学んでいても欲も怒りも減らずに、心が進歩していないな、と感じる事があるなら、このカーラーマ経に従って学ぶ方法を検証する必要があると思います。 書いている本人が言うのも何ですが、当然このブログの内容もカーラーマ経に従って無批判に信用する事は出来ません。 長くやっても心の進歩を感じられないなら、自分の実践方法と教える人の両方を検証する必要があります。 しかしこれは言うは易しで実際には簡単ではありません。 そこでの言葉だけを集めたターン・プッタタートのがありますので、ご覧になることをお勧めします。 mucunren 一ヶ月ほど続けてきたこのブログも、大体一通りの事は説明できたのではと思います。 まだまだ各論や詳しい話はありますが、内容があまり多くなると「一から学ぶ」人には読む気が失せると言う懸念も生じます。 なので、このブログも今回の記事でとりあえず一区切り、と言う事にしたいと思います。 ブッダのダンマは「学ぶ」ものですが、この学ぶは、学校や塾で行う勉強とは本質的に異なるもので、「実践」が一番大切だとご理解頂きたいと思います。 つまり、ピアノのレッスンと同じで「自分で体得」しないと意味のないものです。 学校の勉強は頭で理解すれば納得あるいは体得しなくてもテストの点数は取れます。 しかし、例えばピアノは何年習おうが本人が努力して練習して体得し、身に付けないといつまで経っても上達しません。 ブッダの教え、つまりブッダダンマ( 滅苦のダンマ)もピアノを弾くのと同じで、体得する必要があります。 つまり、欲望を減らし、執着を減らし、我を減らすことで、素早く発生する感情を制御、抑制できる様になり、あらゆる「自分」と言う感覚を減らす事が必要です。 もう少し短く言えば、あらゆる身勝手と所有の概念から生じる全ての苦を減らす事がブッダの教える、目標とする境地です。 欲を離れて心がいつも落ち着いている状態になると、心を熱くさせる焦燥は無く、常に心に安らぎがある高級な幸福を得られます。 そのためには、いつも自分の心に目を向けて、感情が生じる度にその原因を深く探る努力、つまり練習をして欲しいと思います。 感情には必ず外部の環境(外側の原因)に対して「こうなって欲しい」「自分の都合通りになって欲しい」と言う欲望(内側の原因)が隠れています。 喜びの感情も良くないのですが、最初は怒りや嫌悪などの不愉快な感情の方が自覚しやすいと思います。 不愉快な時にいつも自分の心の中の身勝手な考えを見つけて、苦しくてもそれを改めて、減らします。 いつも自分を正当化して甘やかす考えを、心の中から追い出します。 罪を犯したのに、反省もせず「これくらいは良いだろう」と言う様に考えるのは、実に毒になります。 どうか、愛情をもって親が子供を厳しく躾(しつ)ける様に、自分の心を躾けて欲しいと思います。 この様に「実践」するのが仏教です。 自分も含めた全ての生き物に決して意図的に加害しない心を、常に保ちます。 譲って、助け、思いやって下さい。 本当に身勝手が減ったとき、 全てのものに実体はない。 と見えて、 何も欲しいもの、なりたいものはないと思えるはずです。 そのとき貴方の心は落ち着いて、ずっと続く平安を得られます。 それが涅槃です。 涅槃は遠いものではありません。 貴方のすぐ身近にある、どこにでもあるものです。 このブログが皆様の苦を少しでも減らすことに繋がればそれ以上の事はありません。 じん のターン・プッタタートの短文にもあるように、在家、つまり普通に家に住んで仕事の収入で生活する人でも出家に近い修行をすることは可能です。 そもそも悟るためには何をしなければならないのでしょうか。 それは家から外に出る事ではない事は明らかです。 何故なら家の外に住んでいて、仕事をしない人が悟れるのなら、この世に悟れる人は大勢いることになります。 しかし、事実は明らかにそうではありません。 悟るためには執着を捨てることこそが必要なのです。 このためには心を正しい状態に保ち、行いも正しくして避けるべきものを避けます。 悟るにはこれらの努力をして「自分と呼ぶような実体はない、なりたい、欲しいと思うものは何もない」と心の底から納得することが必要です。 つまり、仮に家に住んでいても、その家、場所に執着しなければ外でもお寺でも家でも場所は関係なく悟れると言う事です。 が出家を勧めたのは、家に居れば嫌でも色々な享楽や所有物に関わる機会が増えるので、悟るために大変効率が悪いからです。 しかし家に居たとしても家も含めて全ての物事を「自分のもの」とか「自分の所有している機会」などのように間違って見ず、あらゆる享楽から離れていれば、これは「梵行(ぼんぎょう)」となりますので出家とほぼ同じ生活になります。 本当に単純に、寝る場所が外であるか、壁の中であるかの違いだけです。 むしろお年寄りや体力のない人などは、無理に出家して外で生活していたら、悟る前に身体を壊して死んでしまうかもしれません。 そうなっては元も子もないので、在家で出家するつもりで生きることは、現代の人にとって非常に現実的な方法と言えます。 かく言う筆者もそのように生活しています。 は、の教えを正しく理解して梵行をしている人は身体が遠く離れている場所にいても(の一人称)の近くに居るが、心を正しく修めていない人は身体が近くに居てもからは遠くに居ると言っています。 もちろん在家の人は世俗と関わらなくてはいけないので、仕事や生活に使う物や身分などの何かしらを所有しなければなりません。 ですからこれらの所有を心の底から「自分のもの」と掌握すれば執着ですので悟りからは遠ざかります。 また、既婚者だと性交から完全に離れる事は難しいでしょう。 しかしこれら全ての所有は「一時的な預かりもの」「レンタル品」と正しくみなせば、何かを「自分のもの」とか「自分自身」とみなす見解(有身見:うしんけん)から離れるのと同じように過度な執着はしなくて済みます。 性交についても夫婦が互いにそれが苦だと明らかに見えれば、離れる事は不可能ではありません。 いきなりは無理でも、少しずつ心がければいずれ可能になります。 このように生きると、命を繋ぐための最低限の事以外に使うお金は無いので、心はマで仕事をします。 このように仕事をすると義務を果たした 仕事を布施とした 満足感がある上に、お金も増える一方です。 欲が無いので余計な事にお金を使わないからです。 人にもよると思いますが、今の時勢では収入の半分を自由に使える人は中々いないかもしれません。 この割合は各自の事情に応じて、人それぞれで構わないでしょう。 心がに近づけば、その人はの近くに居ます。 一千一万のお経を暗記しても、感情に心が支配される人はから遠い所に居ます。 極端な話教えを全く知らなくても怒らない人、感情の支配下にない人はのすぐ近くに居ます。 ですから在家の生活をしていても、心をの近くに持っていくための、在家出家は可能です。 もちろんお金や取引に関わりを一切持たず、食と生活必需品だけ托鉢する本当の出家の方が梵行としては優れていると言えますが、残念ながらこの様な本当の行を薦める寺院は今は本当に少ないです。 それに皆さんがすぐ行える上記のような在家出家は現実的かつ非常に効果的な実践であり、一部のお金儲けが目的のお寺や戒禁取だらけのお寺で出家するよりはるかに良く、お勧め出来ます。 喜びの満足の威力から生じる欲望が苦の原因だと言うのがブッダの教えですが、それを聞いただけで誰もが「はい、わかりました」と言って大好きなお酒、食べ物、テレビ、音楽、性的な行為云々の喜びの対象を止められるならそれこそ「苦」労はありません。 「言うは易し、行うは難し」と言われる様に、何でも言葉にして簡単に実行出来るなら苦労はありません。 誰でもそうそう自分の気に入っているもの、のめり込んでいるものから離れることは出来ないのです。 それどころか、のめり込んでいればいるほど離れることはとても難しいでしょう。 ブッダはテレビや音楽、美食などと言った喜びの受全てについて次の様に言っています(当たり前ですが当時テレビはありません)。 六処入(六根)が(無常なので)維持できないことを知り、満足の威力から生じる旨味を知り、凶悪な害を知り、そして離れる方法を真実のままに知れば、その聖なる人は預流者であり、落ちて普通になることはなく、涅槃が確実で将来必ずダンマを全て悟ると私は言います。 相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻271頁92項 つまり、六処入であるところの目でも、耳でも、鼻でも、舌でも、体でも、心でも、普通の人は喜ばしい受(感覚)をしょっちゅう求めているのでいつも落ち着きがありません。 どこも痛いところや苦しいところがなくても、この様な心の状態が既に苦なのです。 では実際にのめり込んでいる享楽、楽しみからどう抜け出したら良いのでしょうか。 一番手っ取り早くて簡単なのは、出家してブッダについて行く事です。 出家した時点で物理的に所有できるものはほとんどありませんし、戒律を守れば六処入の楽しみからも離れなければなりません。 もう六処入を楽しむ事が環境的に不可能になります。 出家の生活に慣れればその時点で享楽からは離れていて、身勝手さが減るとその生活が非常に清潔で、穏やかな最上級の幸福、つまり世俗を超えたローグッタラの境地である事を知ります。 もちろん、通常の人の考えではブッダはもう亡くなっているし、出家なんて出来ないと思うでしょう。 しかし可能です。 今の日本で(日本でなくてもどこでも良いです)働きながら、学校に通いながら、家に住みながら出家してブッダについて行くことは可能なのです。 この話は長くなるのでまた後で述べたいと思いますが、今回は全ての趣味、享楽を止める方法を説明します。 私は以前毎日お酒を飲んでいたのでお酒で例えます(今は害が見えて完全に止めました)。 お酒の代わりに音楽など他の趣味でも構いません。 大体のめり込んでいるものは毎日やります。 音楽などは酷い人だと24時間ヘッドフォンを耳から外さないとか、頭の中でずっと音楽が鳴っている人もいるでしょう。 不愉快に思われるかもしれませんが、こう言う状態は心が一瞬も落ち着く事が出来ないのでターン・プッタタートが仰る所の「目一杯苦」になっています。 実は趣味や楽しみと言うのは苦だと(せめて知識としてだけでも)知ることは、そこから離れるための絶対必要条件です。 ただいきなりは離れられないので、毎日やっているなら月に一日は休みます。 一日丸々休めないなら、月に一度一時間止めるとかでも構いません。 とにかく可能な範囲で離れている時間を増やすのがポイントです。 ずっと家にいる人で一日中テレビをつけているなら、一日一時間この時間帯だけは絶対にスイッチを切るとか、三ヶ月に一度とかでも見る番組を減らすなどの試みでも大変有効です。 これは続ける事が大切なので、三日坊主にならないように例えば三ヶ月単位とか、一週間続けてできる方法を各自で決めれば良いと思います。 お酒なら月に一日休む、それが出来る様になったら二週に一日休む、週に一日休む、、、一日おきにする、週に一日にする、、、とやっていればいずれは止められる理屈です。 趣味を止められた状態になると、その時に客観が生じます。 「自分は何であんなに夢中になっていたんだろう?」と。 膨大なお金と時間をつぎ込んで来たものが、実は空っぽのもので、自分の苦を減らすことに何の役にも立たなかったどころか、むしろ色々な苦をもたらしていた事に気付きます。 これが「害が見える」と言うことです。 旨味と害の全てが見えれば、毒をわざわざ飲む人がいないのと同じで離れる事が出来ます。 これをブッダは「知り尽くす」と言っています。 害より旨味の方に目がくらんでいるうちは、絶対に離れられないので必ず旨味を貪ります。 しかし、害が見えれば離れられます。 離れられれば旨味と害両方を知ったので「知り尽くした」と言えるのです。 を名乗っている人でも、お金や異性、承認欲求、色んな趣味に目がくらんでいる人は沢山います。 不思議に思うかも知れませんが、これは中々自分では気付けない事なのです。 だから気付かずに、自分からお金や異性などの目がくらんでいる話をします。 話を戻しますと、離れる(知り尽くす)コツはとにかく無理の無い範囲でやって、「長く続ける」事です。 これが出来れば一度も病院に行かずに、一円もかからず全ての享楽から抜け出す事が出来ます。 ブッダの教えは絵空事ではなく、実現可能な事しかありません。 mucunren 苦の原因である取(執着)は、四つに分類されます。 愛欲の満足への執着である欲取、見解への執着である見取、儀式儀礼などを含めた誤った滅苦の方法への執着である戒禁取、何でも「自分」あるいは「自分のもの」と認識する執着である我語取です。 この最後の我語取は他の3つの執着の原因にもなっています。 ひとつずつ見ていきます。 満足の感覚は「自分の満足」と思うので生じます。 他者の満足と思っているものへ執着することはあり得ません。 見解、考え方への執着は「自分の見解、考え方が正しい」と思うので生じます。 他者の考え方と思っているものに執着することはあり得ません。 儀式儀礼、効果のない方法、例えば神に成功を祈るとか、星の運行を占うなどは、「自分の知っているこの方法に効果がある」と執着することで生じます。 他者の方法と思っているものに執着することはあり得ません。 この様に四つの執着のうち最初の三つは全て四番目の我語取に含まれる事がわかります。 もし我語取が無くなれば執着は全て無くなります。 しかし最初の三つが無くなっても我語取はまだ残ります。 例えば自分と他者の善し悪しを比較すること、これは良く慢心として現れます。 慢心があると客観性を欠き、酷ければ相手が正しくても間違っていると思い込んだりします。 また、ほんのちょっとしたイライラ、禅定への執着などの少しの無明が残ります。 我語取さえ無くなれば完璧な解脱で、阿羅漢です。 仏教が他の宗教と完全に一線を画するのはこの我語取の規定があることです。 他の教義ではまだ「自分」があり、「最高の自分」をゴールに設定したりしています。 つまり完全な無我が滅苦につながると言う教えがありませんので、苦を完全に消滅させる事が出来ません。 仏教は発生と消滅のある全てを無常と正しく真実ありのままに見て、我語取を無くすことによる完璧な滅苦を規定しています。 同じ理屈で無常である心身、つまり(形受想行識)を自分あるいは自分自身と間違ってとらえること、つまり五取蘊が苦であると知る様にと言う教えが仏教の真髄です。 mucunren ブッダの教えには考えは苦、と言われることもありますし、熟慮して真実をありのままに見なさいと言われることもあります。 一見、考えては駄目なのに熟慮するの?と矛盾している様に思えます。 この「考え」と言う単語がくせものなので、言葉の定義をしっかりする必要があると思います。 駄目だと言われるものは、身勝手から生じる「妄想」です。 例えば「あ~宝くじが当たらないかな。 」とか、「あの人好みだなお近づきになりたいな。 」などと言うのが典型的な妄想です。 こういう事は考えれば即苦になりますので「考えは苦」あるいは「行(サンカーラ)は苦」と言われます。 しかし、身勝手のない思考、真実をありのままに見る思考は必要です。 例えば前回述べたような「何故エレベーターで待たされて不快になるのか、腹が立つのか」とか「なぜ人は苦と感じるのか」などと言う事実を良く分析するような思考は理性であり必要です。 これも日本語では「考え」に含まれますので混乱の元です。 欲と正しい希望の話の様にしっかり区別する必要があります。 つまり身勝手から生じるあらゆる考えは苦ですが、真実をありのままに見て苦を減らすために理性で行う考えは苦を減らすために必要なものです。 後者は完全な客観なので、身勝手な「我」が介在する余地がないと見ることが出来ます。 あるいは完全な客観視には主観から「生じる」勝手な理屈で何かを作り出しておらず、「見る」だけなので「行」(作り出す事、サンカーラ)ではないと見る事も出来ます。 いずれにせよ矛盾はありません。 以上の理由から、単に「考えるな」と言ってしまうのは若干誤解を招く表現だと思います。 ブッダも熟慮して苦の原因を明らかに見て大悟したのであり、全く何も考えなければ四聖諦を悟ることはできませんでした。 こういう真実を見るための思考は必要ですし、ブッダも真実をありのままに見る様に勧めています。 つまり、ありのままに「見る」すなわち熟慮する事と、苦になる「考え」とをはっきり区別していないと、こう言う混乱が生じます。 これは欲と正しい希望とを混同するのとほとんど同じ理屈で生じる間違いです。 結論として欲が原因で「ああなって欲しい」とか「こうなったら良いな」と考えたり、楽しいことや夢中になることを妄想する様な「考え」は苦になりますから止めた方が良いでしょう。

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