なつ ぞ ら 一休 さん。 なつぞら

一休宗純についてあなたの知らない7の事実!一休さんの本当の人生を読み解く

なつ ぞ ら 一休 さん

道号は一休、戒名は宗純。 1394年2月1日生まれ(室町南北朝時代)、1481年12月12日没。 ちなみに、アニメ『一休さん』で有名な「将軍様」こと第3代室町幕府将軍足利義満は、1358年生まれ1408年没である。 一休宗純の父は、北朝最後の天皇で第6代に数えられ、南北朝統一後は歴代で第100代天皇に数えられている 後小松 ごこまつ天皇。 母は、 伊予局 いよのつぼね(諸説あり)。 一休宋純の父である第100代後小松天皇には、親王(直系男子)である一休宋純以外に、一休宋純の異母弟にあたる実仁親王(生没年1401-1428/母は藤原資子)という親王(直系男子)がいた。 実仁親王は、後小松天皇崩御後、一休宗純を差し置いて、第101代 称光 しょうこう天皇に即位する。 その後、称光天皇が亡くなると、またしても一休宗純を差し置いて、北朝第3代 崇光 すこう天皇のひ孫にあたる彦仁親王(生没年1419-1471/父は後崇光院)が、第102代 後花園 ごはなぞの天皇として即位している。 一休宗純が天皇に即位できなかった理由としては諸説あるが、ひとつは、一休宗純の母である伊予局が、一休宗純が東宮(皇太子)任命争いに巻き込まれる事を避けるため(暗殺などから命を守るため)、数え6歳の時に、京都安国寺の像外集鑑に入門させており、仏門に入れる事によって朝廷から遠避けたと言う説。 ひとつは、一休宗純の母である伊予局という人物は、後小松天皇の皇后(正式な妻)ではなく(後小松天皇の皇后は実仁親王の母である藤原資子)、また、伊予局と言う人物名も主だった文献には登場しておらず、従って伊予局は、入内(正式に宮中に入っていない)しておらず、当時、一休宋純は後小松天皇のご落胤(隠し子)とされていたと言う説である。 これらの説や、諸説から、一休宗純が、朝廷からも民衆からも、後小松天皇の親王であるという認識がなかった事を示している。 その後、僧として成長した一休宋純は、応仁の乱(1467年~1477年)の最中、第103代 後土御門 ごつちみかど天皇の勅命(天皇による直接命令)により、大徳寺(京都にある臨済宗大徳寺派大本山)の第47代住持(住職)に任命される。 また、一休宋純は破戒僧であった。 破戒僧とは、戒律を無視し破り続ける僧の事である。 一休宋純は、蚊を殺し(不殺生戒を犯す)、酒を飲む(不飲酒戒を犯す)。 その極みは、晩年にある。 読経する傍らで、17歳の盲目の少女を囲い続けていた(不邪姪戒を犯す/よこしまで淫らな男女関係)。 しかし、後土御門天皇とは親交があり、また民衆からの信頼も厚かったと言われている。

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【アニメ】一休さんに出てくる登場人物の一覧

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一休宗純は室町時代の有名な僧で、様々なとんちばなしを遺した人物です。 父は南北朝を統一した後小松天皇で、母は藤原一族出身の高貴な家柄の出身だったと言われています。 当時の政界では陰謀が相次いでおり、後小松天皇に寵愛された一休の母は宮廷を追われることになりました。 そして彼女は嵯峨の民家で彼を産み、彼を政争に巻き込まないように安国寺に出家させたのです。 6歳の一休は「周建」という名前を与えられ、安国寺で11年間修行。 才能を伸ばして、17歳の時には謙翁宗為の弟子として仕えることになります。 その師から「宗純」という名前を授けられました。 謙翁宗為が亡くなった後は、華叟宗曇の弟子になり、命がけとも言えるほど厳しい修行を受けます。 彼はそこで平家物語を聞いた後、「有漏路 うろぢ より無漏路 むろぢ へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」という無常観を感じた歌を詠み、それを聞いた華叟が「一休」という名を授けました。 ある夜、28歳の一休は、カラスの声を聞いて悟りを開くことに成功します。 華叟は一休に「印可証(悟りを開いたことを証明する書)」を授けましたが、彼はそれを受けることを拒否。 それ以来、一休は華叟の元を去り、狂歌にまみれた自由奔放な人生を送ることになったのです。 彼は当時の世俗化した僧界を師匠の華叟同様に嫌う僧侶でした。 そして民衆の世界に飛びこみ、自分の修行したことを庶民に教えたのです。 当時の僧界からは「破戒僧」と恐れられていたものの、庶民からは「生き仏」と崇められ、多くの人々に慕われました。 応仁の乱の真っ最中の1474年には、後土御門天皇の勅命によって大徳寺の住職に任じられ、復興に尽くしました。 彼は1481年に酬恩寺にて88年の激動の人生にその幕を閉じることになります。 1:2回も自殺未遂を起こした 一般的に知られているイメージからは想像できませんが、彼は生涯に2回も自殺未遂をおこしていました。 1回目は謙翁和尚が亡くなった後。 彼は謙翁を相当慕っていたようで、師が亡くなった時はかなりのショックを受けていたようです。 何度か自殺を試みましたが、それも失敗しました。 その後はかなりの反骨精神をもつようになったと言われています。 2回目は大徳寺で派閥争いが起きたことがきっかけでした。 大徳寺では何人かの投獄者が出ており、自殺者まで出る悲しい事態となっていたのです。 彼はその僧界の堕落を嘆き、断食をして死を試みましたが、結局は天皇の説得で死を免れることになります。 彼は想像以上に壮絶な人生を送っていたのでしょう。 2:「印可証」を燃やした 一休は華叟に「印可証」を授けられましたが、彼はそれを拒否し、果てには「印可証」を燃やす行為に至ります。 当時の仏教界では「印可証」を捨てることは前代未聞のことでしたが、彼はかなりの反骨精神を持っていたため、「印可証」を持つことさえ嫌っていたようです。 そんな予想もできない行動に、師は馬鹿者と笑ったと言います。 3:僧なのに悟りを開かなかった 仏教の僧は「悟りを開く」イメージがありますが、彼は「悟りを開かない」ことを頑なに貫いた人です。 その信念は「悟りなどないことを悟った」という頑固者を絵にかいたようなものでした。 4:いつもぼろを身にまとっていた 彼は超が付くほど反骨精神が強いせいか、いつも貧相な服を身にまとっていました。 彼の考えによれば、外見がどんなに華やかでも中身が伴っていなければ無意味だそう。 この姿勢こそが、彼の個性を際立たせてくれます。 まさに庶民の立場に立った一休らしい振る舞いです。 5:華叟以上の変人 一休の師匠である華叟も僧界を嫌い、自ら清貧を望んだ変わった僧侶で、アウトローになった人でした。 しかし彼は師のさらに斜めをいき、「周りを立派に見せるため」にわざと貧相な格好をしたと言われています。 6:晩年は森女と共に過ごした 一休は晩年には盲目の森女と出会い、彼女を臨終の時まで溺愛していました。 彼女は後亀山天皇の血を引いており、彼と同じく高貴な身分出身の、40も歳の離れた女性だったと言われています。 7:最期の言葉に「死にたくない」 一休の最後の言葉は「死にたくない」という、普通の僧侶からしたら考えられないものでした。 まさに彼らしい、アウトローな名言でしょう。 一休宗純が生きた時代背景を探る.

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「一休宗純」とは?一休さんのモデルは反逆のカリスマだった

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一休宗純は室町時代の有名な僧で、様々なとんちばなしを遺した人物です。 父は南北朝を統一した後小松天皇で、母は藤原一族出身の高貴な家柄の出身だったと言われています。 当時の政界では陰謀が相次いでおり、後小松天皇に寵愛された一休の母は宮廷を追われることになりました。 そして彼女は嵯峨の民家で彼を産み、彼を政争に巻き込まないように安国寺に出家させたのです。 6歳の一休は「周建」という名前を与えられ、安国寺で11年間修行。 才能を伸ばして、17歳の時には謙翁宗為の弟子として仕えることになります。 その師から「宗純」という名前を授けられました。 謙翁宗為が亡くなった後は、華叟宗曇の弟子になり、命がけとも言えるほど厳しい修行を受けます。 彼はそこで平家物語を聞いた後、「有漏路 うろぢ より無漏路 むろぢ へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」という無常観を感じた歌を詠み、それを聞いた華叟が「一休」という名を授けました。 ある夜、28歳の一休は、カラスの声を聞いて悟りを開くことに成功します。 華叟は一休に「印可証(悟りを開いたことを証明する書)」を授けましたが、彼はそれを受けることを拒否。 それ以来、一休は華叟の元を去り、狂歌にまみれた自由奔放な人生を送ることになったのです。 彼は当時の世俗化した僧界を師匠の華叟同様に嫌う僧侶でした。 そして民衆の世界に飛びこみ、自分の修行したことを庶民に教えたのです。 当時の僧界からは「破戒僧」と恐れられていたものの、庶民からは「生き仏」と崇められ、多くの人々に慕われました。 応仁の乱の真っ最中の1474年には、後土御門天皇の勅命によって大徳寺の住職に任じられ、復興に尽くしました。 彼は1481年に酬恩寺にて88年の激動の人生にその幕を閉じることになります。 1:2回も自殺未遂を起こした 一般的に知られているイメージからは想像できませんが、彼は生涯に2回も自殺未遂をおこしていました。 1回目は謙翁和尚が亡くなった後。 彼は謙翁を相当慕っていたようで、師が亡くなった時はかなりのショックを受けていたようです。 何度か自殺を試みましたが、それも失敗しました。 その後はかなりの反骨精神をもつようになったと言われています。 2回目は大徳寺で派閥争いが起きたことがきっかけでした。 大徳寺では何人かの投獄者が出ており、自殺者まで出る悲しい事態となっていたのです。 彼はその僧界の堕落を嘆き、断食をして死を試みましたが、結局は天皇の説得で死を免れることになります。 彼は想像以上に壮絶な人生を送っていたのでしょう。 2:「印可証」を燃やした 一休は華叟に「印可証」を授けられましたが、彼はそれを拒否し、果てには「印可証」を燃やす行為に至ります。 当時の仏教界では「印可証」を捨てることは前代未聞のことでしたが、彼はかなりの反骨精神を持っていたため、「印可証」を持つことさえ嫌っていたようです。 そんな予想もできない行動に、師は馬鹿者と笑ったと言います。 3:僧なのに悟りを開かなかった 仏教の僧は「悟りを開く」イメージがありますが、彼は「悟りを開かない」ことを頑なに貫いた人です。 その信念は「悟りなどないことを悟った」という頑固者を絵にかいたようなものでした。 4:いつもぼろを身にまとっていた 彼は超が付くほど反骨精神が強いせいか、いつも貧相な服を身にまとっていました。 彼の考えによれば、外見がどんなに華やかでも中身が伴っていなければ無意味だそう。 この姿勢こそが、彼の個性を際立たせてくれます。 まさに庶民の立場に立った一休らしい振る舞いです。 5:華叟以上の変人 一休の師匠である華叟も僧界を嫌い、自ら清貧を望んだ変わった僧侶で、アウトローになった人でした。 しかし彼は師のさらに斜めをいき、「周りを立派に見せるため」にわざと貧相な格好をしたと言われています。 6:晩年は森女と共に過ごした 一休は晩年には盲目の森女と出会い、彼女を臨終の時まで溺愛していました。 彼女は後亀山天皇の血を引いており、彼と同じく高貴な身分出身の、40も歳の離れた女性だったと言われています。 7:最期の言葉に「死にたくない」 一休の最後の言葉は「死にたくない」という、普通の僧侶からしたら考えられないものでした。 まさに彼らしい、アウトローな名言でしょう。 一休宗純が生きた時代背景を探る.

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