君のいない世界で僕が生きるとすれば。 【読書記録】君たちはどう生きるか~人生において大切なこと~

彼らが生きる世界はNetflixネトフリで見れない!U

君のいない世界で僕が生きるとすれば

カヲルとシンジの会話をちょっと変えてみたら人生訓のようになった 新劇場版:Qより カヲルとシンジ ピアノ連弾シーン シンジ 「どうしたら もっとうまく弾けるのかな?」 カヲル 「うまく弾く必要はないよ、ただ気持ちのいい音を出せばいい」 シンジ 「じゃあ もっといい音を出したいんだけど どうすればいい?」 カヲル 「反復練習さ 同じ事を何度も繰り返す 自分が"いいなって感じられるまでね それしかない」 カヲルとシンジが寝そべって星を見ているシーンでカヲルがシンジに 「変化を求めず 虚無と無慈悲な深淵の世界を好む」 「君らしいよ」とも言っている 「僕は君と会うために生まれてきたんだね」 シンジとカヲルの会話をちょっと変えてみた 「どうしたらもっとうまく生きられるかな?」 「うまく生きる必要はないよ、ただ自分が満足だと思えることをすればいい」 「じゃあ もっと満足できるようにしたいんだけど どうすればいい?」 「反復練習さ 同じことを何度も繰り返す 自分が満足できたなって感じられるまでね それしかない」 人生で満足することなんて そうそうないと思うかもしれないが、イヤなことでも イヤだイヤだと思いながらやり続けると、どこかでもういいやって気持ちになったりする。 これはイヤなことをやり続けて、もうお腹いっぱいだからこれ以上食べられない状態と一緒で、イヤなことに満足したことになる。 もちろんどんな状況にも当てはまるとは一概には言えないが、おかしなもので、イヤなことでもそこまでやり続けると どうでもよくなって、これまでみたいにイヤなことに意識が集中しなくなったりして、まあいいや、こんなものかもしれないと思えたり、環境を変えようと思えたりする。 ココロは感じ切って お腹いっぱいにならないと満足できない 小さい子どもがひとつの遊びに夢中になると、満足するまで遊び続ける。 それは1時間かもしれないし、子どもによっては何日も飽きずに遊び続けることもある。 これは個人差で満足の度合いが人によって違うからに他ならない。 ピアノの練習と一緒で、世界的なピアニストになろうと思っていれば、ちょっとうまくピアノが弾けたところで全然満足しないだろうけど、素人がピアノが少しでも弾けたらいいなぁと思っているなら、多少の練習でも満足できるかもしれない。 この満足は、やりたいと思っていることだけにはとどまらない。 例えば誰かが亡くなったとき、その人が親しければ親しいほど悲しみは大きいだろうし、そんな時に「元気出しなよ」なんて言われても元気など出るわけもない。 悲しみも大きければ大きいほど、癒されるのにも時間がかかる。 自分の心に占めていた 亡くなった人の割合の分だけ 充分に悲しまないと、なかなか癒されることはない。 それは何か月かもしれないし、何年もかかるかもしれない。 人の心は不思議なもので、感じ切らないと満足できない。 満足できないと次には進めないで、無意識のうちに満足出来るようなような行動をとってしまう。 カヲルは本当にシンジと同じ年ごろなのか? カヲルの言葉 「変化を求めず 虚無と無慈悲な深淵の世界を好む」 「君らしいよ」 「僕は君と会うために生まれてきたんだね」 カヲルはシンジのことをよくわかっている。 レイのように感情がわからないわけではなさそうだし、それでいて感情を表に出すことも流されることもない。 かといってシンジを否定することはない。 どんだけ大人?肉体年齢と精神年齢は違うということだろうか。 カヲルのシンジに対してのセリフは、いちいち的を射ているように見えるし、のカヲルは 「生と死は等価値なんだ。 僕にとってはね」と言っている。 でのカヲルはよりも、死に対してさらっとしている。 カヲルが世界を何度もやり直してループしているとしたら、そしてその記憶が消えることなくを蓄積されていたとしたら、その年頃の言葉とは思えない会話も納得できる。 karisomenohate.

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フェイクニュースがあふれる世界に生きる君たちへ

君のいない世界で僕が生きるとすれば

そのまま要請は進められたようだ。 学校は休校らしい。 感染者は増える一方か。 そしてマスクは増産していく。 と思いきや、ワールドヘルスオーガニゼーション(WHO)より、『マスク、あんまり意味ないですよ~』発言。 普通に外出している自分と、 スマホを通して眺めているコロナに侵されつつある世界にギャップしかない今。 でもnoteを書くことはぼくの生活の一部なので、雨にも負けずコロナにも負けず、書きたいと思います。 ぼくは本を読むのが個人的に苦手。 文字からよりも実体験から気づくことが多かったり、自分に腑に落ちることが多いと思う。 あっちゃんの動画は取っつきにくい歴史や学問など、笑いも交えながらわかりやすく伝えてくれる。 とてもありがたいし、面白い。 せっかくなので初の試みとして、アウトプットしたいと思う。 今回見ていた動画はコチラ。 笑 でも面白いと思います。 少し懐かしいですね。 1937年に発売された本が、現代の大人たちに反響を起こした作品。 ぼくも当時はなんとなく買って読んでいた。 当時は山梨で仕事をしていて、都内に来るといつも本屋にずらーっと並んでいた光景を思い出す。 複数の物語の中で、そのうち2つのエピソードを振り返りながら、ぼくが感じたことをアウトプットしてみる。 (本当は他の章についても書きたいけれど、超絶長くなってしまうので。 泣 注:完全に動画のネタバレなので、動画を見たい方は動画を見てくださいね。 コペル君の日常からの気づきに対して、おじさんが真摯に向き合い、学びや知恵を伝えていく。 すべてのものは、最小単位"分子"という小さな粒が集まってできているんだと。 そしておじさんと一緒に銀座へ出掛けた時、ふと人がちっちゃく見えた。 コペル君は言った。 『 人間はみんな、分子みたいだね。 コペルニクスの発見に相当するよ!』 コペルニクスとは、 地動説(地球が動く説=地球が太陽の周りを回っている)を唱えた天文学者。 この発見は、天文学史上最も重要な発見とされている。 今ではぼくらの常識ともなっているけれど、発表した当時は受け入れられるまで何百年もかかったとのこと。 当時の中世ヨーロッパ(14世紀、1400年代くらい)は、 キリスト教が常識の時代。 『世界はまずこの地球から生まれているのだ。 だから中心はこの地球にある。 だからそんな考えはありえない!』という天動説(天が地球中心に動く説)以外の考えは受け入れられなかった。 それ以外の考えを発表すれば投獄されたり、書物を焼かれてしまったり、迫害を受けたりしていた。 このことから考えると、人間は往々にして、 自分中心に考えがちな生き物なのかもしれない。 例えば、自分の絵を描くときには自分を真ん中に書きがちだったり。 自分の国を地図に書くときは、自分の国を中心に書きがちだったり。 自分が主役、周りが脇役という視点に自然となりがちなのかもしれない。 だからどうしても自分を中心としない地動説は、当時受け入れずらかったのではないだろか。 コペル君は言う。 人間を分子のようだと考えると、 自分は世界のひとつの小さな構成要素でしかない、自分がちっぽけな存在なんじゃないかと思ったんだ。 』 おじさんは言った。 『ありがとう。 コペル君のように、 そういう違った視点で物事を見ることができることは、とても素晴らしいことだし大切なことだとぼくは思う。 コペルニクス的発想を持つ君は、やっぱり"コペル君"だね!』 (としやの感想) あっちゃんのYouTubeを見ていると、これまで世界には 様々な歴史があるということを強く思う。 知らないことがたくさんなのだと気づく。 そしてその時代の常識、宗教、文化、大多数の人の価値観に対して、 マイノリティな新たな考え方が出てくる。 最初は受け入れられなかったりするけれど、それが受け入れられる時代になったりしていく。 『はあぁん?YouTube?何それ?テレビっしょ。 ありえないっしょ。 』と言っていた批判者も、気づけばYouTubeを見ている、とかね。 笑 長年勤めている上司に若手社員がアイディアを持ってきたとき、『はあぁん?なんだそりゃ?浅はかやな~』と言っていたけれど、 その意見が本質を突いていて結局採用されて、気づけばしら~っと同意側に回っている、とかね。 口グセが似ておりますが、同じ人ではございません。 笑 時代の変化を通して、時代時代によって最適化されていく。 日々の小さな気づきや学び、感じたことは、ちっぽけなことかもしれない。 取るに足らないことかもしれない。 でも、ちっぽけなことかどうかはわからない。 その小さなものたちを拾っていくことで、世界は広がるのではないかと思う。 そしておじさんとコペル君との関わり。 上司や親としての在り方。 意見を聞いてあげる、受け入れてあげる。 寄り添いながら、人生の先輩としての学びを伝えていく。 このおじさんの姿勢は、ぼくはとても好きだ。 浦川君は気弱そうな男の子で貧しい家の子。 実家は油揚げ屋さん(作ったり売ったり)をしている。 山口は浦川君のことを、『あぶらあげ』と呼んでいた。 毎日のお弁当があぶらあげだけで、それを陰でバカにしていた。 背中から砂をいれられたりしていて、コペル君も含めたクラスのみんなもいじめられている姿を日頃から眺めていた。 コペル君は思っていた。 「山口、、、やめろよ・・・。 」 でも勇気がなく動けないままだった。 コペル君は思った。 『なんでみんなはいじめを止めないんだろうか。。。 分子のつながりが良いときもあれば、時に悪い分子のつながりが発生してしまうのかもしれない。。。 』 このことをおじさんに伝えると、 『自分で考えなさい』とひと言、言われた。 ・・・ ふとある日、11月にクラス演説があるとのことで「誰がクラス演説をするか」という話し合いをしていた。 ふとコペル君の机に、小さな紙が回ってきた。 『あぶらあげにエンゼツさせろ』 山口が回していることにすぐ気づいた。 みんな山口のしわざだとわかっている。 でも山口に逆らったら次のターゲットは自分になるかも。。。 そう思い、そのまま回してしまう。 浦川君にも紙が回る。 その文字を見る。 複雑な顔をしている。 コペル君はそんな浦川君を眺めていた。。。 すると、坊主頭で身体が大きく正義感が強いガッチンと呼ばれている男の子が、バンッと立ち上がった。 『もう我慢ならねぇ!おい!山口!浦川いじめるのやめろよ!』 そして取っ組み合いのケンカになった。 ガッチンが山口を殴った。 するとクラスの他の人たちも日頃山口に対して感じていたうっぷんを晴らすべく、みんなで殴り掛かろうとした。 コペル君は動けず眺めていた。 するとその時、浦川が飛び出した。 『やめてーーー!!!!』 『・・・!!!!????浦川、、、!!』 『もう、、、、やめようーーーーーー!!!!』 ・ ・ ・ 放課後、コペル君は帰り道、浦川君に聞いてみた。 『なんであの時、、、浦川君は止めたの?』 『うん。。。 』 ・・・そう思ったんだ、浦川君。 いじめられっ子で、貧乏で、気弱だと思っていたけれど。。。 そしてぼくは飛び出せず、ガッチンは勇気を出して飛び出した。 そしてまさか、いじめられっ子の浦川君が、いじめている山口を、守った。 『浦川君は立派だ。 』 コペル君はそう思った。 ・・・ おじさんにまたこのエピソードを伝えてみた。 するとおじさんは言った。 『話してくれてありがとう。 コペル君は、浦川君を立派だと思ったんだね。 立派な人について考えることは大切だとぼくもそう思う。 君のお父さんは既に亡くなってしまっているけれど、実はぼくはお父さんから伝言を言われていてね。 うちの息子を、どうか立派な人間にしてやってほしい。 それについて考えることは大事だけれど、それをおじさんが教えることはできないんだ。 だからあの時ぼくは、『 自分で考えなさい』と言ったんだ。 どうして教えることができないかというとね。 水は何で出来ているか知っているよね?H2Oだよね。 つまり、酸素と水素が2対1で構成されている。 このことは教えられる。 でもね、『汲んできた井戸の水の味がどんな味をするのか』、これをおじさんは教えることはできないんだ。 きれいな水を飲んでみて、どんな味がするのか、どんなのど越しなのか、飲んだ後どう感じるのか、、、 君が飲んでみることでしか、経験をすることでしかわからないということなんだ。 立派な人というのは、こんな人かもねという情報だけは伝えられる。 水の構成のようにね。 だから、たくさん味わってほしいんだ。 この経験から、なぜガッチンのことをかっこいいと思ったのか、浦川君のことを立派に思ったのか・・・。 そしてその経験からの感動を忘れないでほしいんだよ。 』 (としやの感想) いじめという、学生時代にほとんどの人が関わる可能性のあるテーマ。 スクールカースト。 小さな社会の中で、自分自身の立ち位置やキャラクターを一人ひとりが背負いながら、 自分という存在を一生懸命維持しようと必死に生きようとする場所。 ぼくは学校は、 世の中の縮図だと思う。 その社会の中での正義があったり、悪があったり。 様々なドラマがある。 浦川君は自分自身を傷つけてくる山口をかばった。 ガッチンは浦川君を守ろうと山口に立ち向かった。 周囲はそれに乗っかろうとした。 コペル君はドキドキして見ていた。 それぞれのその状況での行動(表面)が見える。 背景までわからない。 なぜ山口はそんなに浦川君をいじめるのか。 何か他に問題(例えば家庭問題など)を抱えたりしていたのだろうか。 クラスの全体はいじめのことはわかっている。 でも今まで動けなかった。 それはなぜなのだろうか。 浦川君は誰かに相談はしていたのだろうか。 心理学では、 『誰が問題の所有者か』を考える。 困っている、問題を抱えているのは誰だろうか。 いじめられている浦川君かもしれない。 一方、いじめっ子の山口かもしれない。 表面だけではなく、その人がなぜそのような行動に至っているのかまで、考える必要があると思う。 カウンセラーは、 不確定な状況に対してサポートしていく。 話を聴く、伝える、様々なワークや心理テスト、心理学的知識を伝えることなどを通して、クライアントの見方を変えるサポートをする。 ぼくがもし先生のような立場であれば、もし可能であれば一人ひとりの話を聴いてみたい。 子供たちから本音が出るのかどうかもわからないのだけれど、自ら子供たちと関わりに向かうことは、大切な姿勢なのではないだろうかと思う。 勇気も必要なのだけれどね。 そう考えると、 日頃から子供とコミュニケーションを取っていくことは大切なのだと思う。 それぞれの家庭の事情がある中で、子供の視点でどう思っているのか。 日頃の関係性の延長線上に、いろんなことが眠っている。 管理者からすると、現場からの社員の声はとても大切だと思う。 何か問題が起こった時に言いやすい先生、言いやすい上司、言いやすい親。 日頃の在り方だなぁ。 立派とは、非常にすぐれているさま。 威厳があって堂々としているさま。 など 浦川君は自分の痛みに関係なく、山口の痛みを感じ、その場所を自らおさめた。 仕返しをしてもいい立場であったかもしれないが、そうしなかった。 コペル君は、「仕返しをしなかったこと」を立派だと感じたのかもしれないし、「人の痛みがわかる共感力」を立派だと感じたのかもしれない。 そんな中で考えてみる。 何かを乗り越えた人に対して、「立派だね!すごいね!」と使ったりするのではないかと思った。 例えば、こういう場面で使うかもしれない。 ~~~ 会社で責任重大なプロジェクトを担当しているリーダーがいるとする。 状況的に、納期が間に合わないかもしれない。 でもなんとかして間に合わせないとお客様に多大な迷惑をかけてしまう。 必死にチームメンバーを鼓舞し、励まし合う。 自分のできることにもがむしゃらに取り組んだ。 『正直無理かもしれない、、、。 けれど、今できることを全力でやりきるんだ・・・!』 そして努力の末、プロジェクトは納期に間に合わせることができた! ~~~ ぼくはきっとこのリーダーの方へ、『あなたの姿はとても 立派でした!』と言うだろう。 辛い状況の中、リーダーとしての役割をやりきった姿に。 終わりに な、長くなってしまいました。。。 笑 ここまで読んで下さった方には、感謝申し上げます。 (感動の涙 この記事を書いている中で、いろいろ考えている自分がいました。 他にもいろんなエピソードがありました。 この本は身近なテーマを題材としているにも関わらず、様々なことを考えさせられる本。 あっちゃんも言っていましたが、 哲学書に近いかもしれません。 堅苦しい言葉や難しい文章の本を読むことも大切かもしれない。 けれど、 こうした当たり前の日常に対して、自分なりに考えてみること、人と対話してみることで、生きていく上で大切な気づき=哲学を見つけられるのではないかと思います。 昔の自分は正直何も考えていませんでした。 考えるって何?とずっと思っていました。 日々自分が感じたことについて、 『なんでそう感じたんだろう?』と、自分に寄り添ってみてあげることから、始まる気がします。 人の数だけ生き方はあるはず。 あなたはどう生きていきますか? 自分が納得できる人生を過ごせるよう、ぼくも哲学しながら生きていきたいと思います。

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「君たちはどう生きるか」の要約|インスタ書店|note

君のいない世界で僕が生きるとすれば

カヲルとシンジの会話をちょっと変えてみたら人生訓のようになった 新劇場版:Qより カヲルとシンジ ピアノ連弾シーン シンジ 「どうしたら もっとうまく弾けるのかな?」 カヲル 「うまく弾く必要はないよ、ただ気持ちのいい音を出せばいい」 シンジ 「じゃあ もっといい音を出したいんだけど どうすればいい?」 カヲル 「反復練習さ 同じ事を何度も繰り返す 自分が"いいなって感じられるまでね それしかない」 カヲルとシンジが寝そべって星を見ているシーンでカヲルがシンジに 「変化を求めず 虚無と無慈悲な深淵の世界を好む」 「君らしいよ」とも言っている 「僕は君と会うために生まれてきたんだね」 シンジとカヲルの会話をちょっと変えてみた 「どうしたらもっとうまく生きられるかな?」 「うまく生きる必要はないよ、ただ自分が満足だと思えることをすればいい」 「じゃあ もっと満足できるようにしたいんだけど どうすればいい?」 「反復練習さ 同じことを何度も繰り返す 自分が満足できたなって感じられるまでね それしかない」 人生で満足することなんて そうそうないと思うかもしれないが、イヤなことでも イヤだイヤだと思いながらやり続けると、どこかでもういいやって気持ちになったりする。 これはイヤなことをやり続けて、もうお腹いっぱいだからこれ以上食べられない状態と一緒で、イヤなことに満足したことになる。 もちろんどんな状況にも当てはまるとは一概には言えないが、おかしなもので、イヤなことでもそこまでやり続けると どうでもよくなって、これまでみたいにイヤなことに意識が集中しなくなったりして、まあいいや、こんなものかもしれないと思えたり、環境を変えようと思えたりする。 ココロは感じ切って お腹いっぱいにならないと満足できない 小さい子どもがひとつの遊びに夢中になると、満足するまで遊び続ける。 それは1時間かもしれないし、子どもによっては何日も飽きずに遊び続けることもある。 これは個人差で満足の度合いが人によって違うからに他ならない。 ピアノの練習と一緒で、世界的なピアニストになろうと思っていれば、ちょっとうまくピアノが弾けたところで全然満足しないだろうけど、素人がピアノが少しでも弾けたらいいなぁと思っているなら、多少の練習でも満足できるかもしれない。 この満足は、やりたいと思っていることだけにはとどまらない。 例えば誰かが亡くなったとき、その人が親しければ親しいほど悲しみは大きいだろうし、そんな時に「元気出しなよ」なんて言われても元気など出るわけもない。 悲しみも大きければ大きいほど、癒されるのにも時間がかかる。 自分の心に占めていた 亡くなった人の割合の分だけ 充分に悲しまないと、なかなか癒されることはない。 それは何か月かもしれないし、何年もかかるかもしれない。 人の心は不思議なもので、感じ切らないと満足できない。 満足できないと次には進めないで、無意識のうちに満足出来るようなような行動をとってしまう。 カヲルは本当にシンジと同じ年ごろなのか? カヲルの言葉 「変化を求めず 虚無と無慈悲な深淵の世界を好む」 「君らしいよ」 「僕は君と会うために生まれてきたんだね」 カヲルはシンジのことをよくわかっている。 レイのように感情がわからないわけではなさそうだし、それでいて感情を表に出すことも流されることもない。 かといってシンジを否定することはない。 どんだけ大人?肉体年齢と精神年齢は違うということだろうか。 カヲルのシンジに対してのセリフは、いちいち的を射ているように見えるし、のカヲルは 「生と死は等価値なんだ。 僕にとってはね」と言っている。 でのカヲルはよりも、死に対してさらっとしている。 カヲルが世界を何度もやり直してループしているとしたら、そしてその記憶が消えることなくを蓄積されていたとしたら、その年頃の言葉とは思えない会話も納得できる。 karisomenohate.

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