フランツ ボアズ。 【社会学】文化相対主義とは?具体例や反対意見と共にわかりやすく簡単に解説

はじめて学ぶ文化人類学(4)ーフランツ・ボアズ

フランツ ボアズ

フランツ・ボアズ 19世紀の進化主義の隆盛に対して、文化相対主義を提唱したのは、フランツ・ボアズ(1858-1942)である。 ボアズは、ドイツの自由主義的なユダヤ人夫婦のもとに生まれ、両親は、ボアズの自由主義、平等主義的な思想形成に影響を与えた。 長じてボン大学やキール大学で物理学、数学、地理学を学んだ。 大学生のときに、反ユダヤ主義者と決闘して傷を負い、人類の単一起源説を強く支持していた。 大学院の1883年に、イヌイットの調査を行うために、カナダ北東部のバフィン島を訪れたが、調査の過程で、食料、住居、病気などの困難をすべてイヌイットに頼らざるを得なかった。 バフィン島での経験から、非西洋文化の研究に強い関心を持つようになった。 1885年にアメリカに移住し、博物館勤務、サイエンスジャーナルの副編集長、大学勤務などを経て、1896年にコロンビア大学で人類学の講師のポストを得た。 1899年には、人類学の教授に昇進した。 当時のアメリカの人類学は、モルガン以来の文化進化論が主流であり、ボアズはこれらの進化主義、人種主義を厳しく批判した。 なお、ボアズはダーウィン進化論の支持者であったとされている。 ボアズはコロンビア大学で、ロバート・ローウィ、ルース・ベネディクト、マーガレット・ミードなど、多くの弟子たちを指導した。 The Chrysanthemum and the Sword ボアズとその弟子たちは、20世紀のアメリカの人類学研究の中心的存在となり、長きにわたって大きな影響をおよぼした。 機能主義 機能主義では、社会は体系的に構造化されており、その機能体系は生物学的有機体に類似していると論じる。 ユダヤ系フランス人で社会学者のデュルケム(1858-1917)は、機能主義的かつ進化論的立場をとっており、社会はさまざまな機能を有する部品からなり、それぞれの部品が進化して多様性を増すと考えていた。 その後、ラドクリフ=ブラウンとマリノフスキは、進化論的立場をはなれ、同時代的な機能主義に純化していった。 ラドクリフ=ブラウン(1881-1955)はケンブリッジ大学で学び、アンダマン諸島とオーストラリアでフィールドワークを行ったのち、『アンダマン島人』(1922)として発表した。 彼は、親族関係、宗教、政治などの社会制度は、個々の身体の器官のようであり、全体として健康な身体のように、社会体系の中で機能すると主張した(構造機能主義)。 ラドクリフ=ブラウンの構造機能主義は、レヴィ=ストロースの構造主義人類学にも大きな影響を与えている。 なお、ラドクリフ=ブラウン自身は、自分が機能主義者であることを否定し、マリノフスキの機能概念と自分の機能概念を区別していたという。 Andamanese,1875 ブロニスワフ・マリノフスキ(1884-1942)は、ポーランド生まれで、父は貴族でスラブ語の教授であった(幼いうちに死んでいる)。 大学で物理学と数学を学んだが、フレーザーの『金枝篇』を読んで影響を受け、民族学を志した。 1910年からロンドンで学び、1914年にオーストラリアへ野外調査に出かけた。 第一次世界大戦が始まったため、結果として6年間にわたってオーストラリアに滞在し、長期のフィールドワークを行った。 1922年にトロブリアンド諸島の調査をまとめた『西太平洋の遠洋航海者』を発表すると、大きな反響を呼んだ。 マリノフスキは、現地の言葉を用いて「参与観察」による長期のフィールドワークをはじめて実施し、その後の人類学に大きな影響を与えた。 Picture of Bronislaw Malinowski with natives on Trobriand Islands Author:likely Billy Hancock.

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【社会学】文化相対主義とは?具体例や反対意見と共にわかりやすく簡単に解説

フランツ ボアズ

フランツ・ボアズ 19世紀の進化主義の隆盛に対して、文化相対主義を提唱したのは、フランツ・ボアズ(1858-1942)である。 ボアズは、ドイツの自由主義的なユダヤ人夫婦のもとに生まれ、両親は、ボアズの自由主義、平等主義的な思想形成に影響を与えた。 長じてボン大学やキール大学で物理学、数学、地理学を学んだ。 大学生のときに、反ユダヤ主義者と決闘して傷を負い、人類の単一起源説を強く支持していた。 大学院の1883年に、イヌイットの調査を行うために、カナダ北東部のバフィン島を訪れたが、調査の過程で、食料、住居、病気などの困難をすべてイヌイットに頼らざるを得なかった。 バフィン島での経験から、非西洋文化の研究に強い関心を持つようになった。 1885年にアメリカに移住し、博物館勤務、サイエンスジャーナルの副編集長、大学勤務などを経て、1896年にコロンビア大学で人類学の講師のポストを得た。 1899年には、人類学の教授に昇進した。 当時のアメリカの人類学は、モルガン以来の文化進化論が主流であり、ボアズはこれらの進化主義、人種主義を厳しく批判した。 なお、ボアズはダーウィン進化論の支持者であったとされている。 ボアズはコロンビア大学で、ロバート・ローウィ、ルース・ベネディクト、マーガレット・ミードなど、多くの弟子たちを指導した。 The Chrysanthemum and the Sword ボアズとその弟子たちは、20世紀のアメリカの人類学研究の中心的存在となり、長きにわたって大きな影響をおよぼした。 機能主義 機能主義では、社会は体系的に構造化されており、その機能体系は生物学的有機体に類似していると論じる。 ユダヤ系フランス人で社会学者のデュルケム(1858-1917)は、機能主義的かつ進化論的立場をとっており、社会はさまざまな機能を有する部品からなり、それぞれの部品が進化して多様性を増すと考えていた。 その後、ラドクリフ=ブラウンとマリノフスキは、進化論的立場をはなれ、同時代的な機能主義に純化していった。 ラドクリフ=ブラウン(1881-1955)はケンブリッジ大学で学び、アンダマン諸島とオーストラリアでフィールドワークを行ったのち、『アンダマン島人』(1922)として発表した。 彼は、親族関係、宗教、政治などの社会制度は、個々の身体の器官のようであり、全体として健康な身体のように、社会体系の中で機能すると主張した(構造機能主義)。 ラドクリフ=ブラウンの構造機能主義は、レヴィ=ストロースの構造主義人類学にも大きな影響を与えている。 なお、ラドクリフ=ブラウン自身は、自分が機能主義者であることを否定し、マリノフスキの機能概念と自分の機能概念を区別していたという。 Andamanese,1875 ブロニスワフ・マリノフスキ(1884-1942)は、ポーランド生まれで、父は貴族でスラブ語の教授であった(幼いうちに死んでいる)。 大学で物理学と数学を学んだが、フレーザーの『金枝篇』を読んで影響を受け、民族学を志した。 1910年からロンドンで学び、1914年にオーストラリアへ野外調査に出かけた。 第一次世界大戦が始まったため、結果として6年間にわたってオーストラリアに滞在し、長期のフィールドワークを行った。 1922年にトロブリアンド諸島の調査をまとめた『西太平洋の遠洋航海者』を発表すると、大きな反響を呼んだ。 マリノフスキは、現地の言葉を用いて「参与観察」による長期のフィールドワークをはじめて実施し、その後の人類学に大きな影響を与えた。 Picture of Bronislaw Malinowski with natives on Trobriand Islands Author:likely Billy Hancock.

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アメリカ人類学の4分野

フランツ ボアズ

このブログは『はじめて学ぶ』からとっています。 本章の作者は です。 (Franz Boas:1858-1942) カ人類学の祖 フランツ・ボアズは、ドイツからへ移住、自然ジル医学、考古学、、の4分野を統合した人類学を構想、それを大学において制度化した人物である。 彼は当時支配的であった人種と文化との統一視により、人間社会の多様性を序列化する立場を批判、文化を歴史構成的、相対的、統合的総体として捉える20世紀のカ人類学の礎を築いた。 今述べた特徴をもつ文化概念をより精緻にしたのはボアズ自身ではなく、彼の薫陶を受けた人類学者たち、例えばマーガレット・ミード、であった。 後に、デイヴィッド・シュナイダーやクリフォード・らも、ボアズが道を開いた文化概念を鍛えあげた結果、自らの人類学的分析を作り出したといえる。 また、ボアズが繰り返しフィールドワークを行ったのはカナダ(州)北西海岸地域である。 それらの調査において、彼は現地研究協力者に依存した。 中にも、もっとも有名な人物はジョージ・ハントである。 ハントとともに残したクワクワカワクゥに関する資料は膨大な量にのぼり、現在でもカナダ国内の先住民文化復興に寄与する大切な遺産となっている。 ドイツ、そして ボアズは、ドイツ・ミンデン市の富裕な人商人の子として生まれた。 彼の少年時代の愛読書の1つは『』であり、すでに異国への憧憬を抱いていたと改装している。 からへと移籍、1882年に大学から物理学の博士号を取得した。 しかし、彼の関心は客観的世界そのものよりも、それと主観との関係にあった。 博士課程修了後、定職が彼を待っていたわけではなかった。 ようやく、ボアズはアードルフ・ーンの助手としてベルリン博物館で働く機会を得る。 そこで働くうちに、ボアズは環境の季節的変更との移動パターンとの関係解明をテーマに、ドイツの極地探検に参加する僥倖に恵まれる。 1883〜84の1年間、カナダ・バッフィン島東岸のの素でフィールドワークをした。 ドイツに戻ったボアズは、ベルリン博物館で収蔵品のカタログ作者の仕事に復帰する。 収蔵品の中には、人探検家ヨハン・A・ゼンがカナダ北西海岸地域から集めた仮面が含まれており、ボアズはその仮面に魅了された。 1886年、私財を投じて、ーンのために仮面を収集するという名目野本、ボアズは自分を虜にした仮面が生まれた場所、へと向かった。 ボアズは、合計13回ほど繰り返しカナダ北西海岸地域を訪問している。 1888年6月、白人貿易商の父とト人の母との間に生まれ、すでにクワクワカワクゥ社会において重要な地位を占めていたジョージ・ハントに、ボアズは初めて出会う。 彼との出会いを境に、ボアズの調査スタイルは大きく変化する。 一方において、ボアズはハントに依存するようになり、他方において、ハントは調査の援助だけではなく、1人の研究者としてボアズの理論形成に影響を与えるようになった。 ボアズの不安定な職を転々とする生活は、やがて終わりを迎える。 の自然史博物館でのキュレイターの仕事を獲得し、1889年、に人類学ぶを創設するが、これは好事家の趣味ではなく、プロの人類学者を養成する場所ができあがったことを意味した。 さらに、での生活は、ボアズとアフリカ系カの知識人や芸術家との交流を促した。 1920年代、「ハーレム・」と言われる黒人芸術活動の中でもボアズの著作は頻繁に引用された。 彼が指導した黒人ゾラ・N・ハーストンは、その運動の中心的人物の1人となった。 ボアズの弟子たちは愛情を込めて、「パパ・フランツ」とボアズを呼んでいた。 人類学部は、当時白人男性が多数を占めていたの諸大学において、北米先住民、人、女性、黒人、1. 5世代と言われる移民の子供たち、外国人たちが気兼ねなく学べる数少ない場所であった。 ボアズは、84歳で亡くなる。 彼の研究生活は長く、その研究テーマも多岐に弥。 研究の功罪を含め、「ボアズ研究」というジャンルすら成立しそうである。 本章では、ボアズの示した文化概念を素描し、資料の新たな読解可能性を簡述することにとどめる。 文化概念の基礎理論 ボアズが人類学を大学組織内部に制度化した功績を疑うものはいない。 しかし彼の学問的業績をどう評価するかは別である。 1949年、ジョージ・P・は、「ボアズは弟子たちにより過大評価されており、彼は理論家として全く体系だった思考ができていないし、フィールドワーカーとしてもたいしたことはない」と、ボアズの仕事を酷評している。 50年代には・ホワイトも、同じ理由でボアズの仕事を厳しく批判した。 後、の社会科学全体が自然科学をモデルとし、一般化や法則を追求しようという方向に向かう中、ボアズのように一般化を嫌い、個別事例の集積とにする学者に対する評価は低かった。 そのような状況を一変させたのは、1960〜70年代にかけて歴史家ジョージ・ストッキングが行ったボアズの仕事を再評価する一連の読解である。 ストッキングは、における人類学の最大の特徴とも言える文化概念は、ボアズなしには成立しなかったと結論づけた。 ストッキングによる読解の骨子は、次のようなものである。 19世紀末に近い頃、ボアズの論敵は何人か存在したが、中でもオーディス・メイソンが最大の標的であった。 メイソンは、人種と文化との違いを述べ、人間の行動を規定するのは人種ではなく文化であると主張した。 文化は人間のもつ多様性の表現であり、それらに優劣をつけることはできず、ハイアラキーには収斂されないという。 1年、ボアズは主著の1冊『未開人の精神』でも、今述べた議論を展開している。 しかし、人種論への批判以上にストッキングが重要視したのは、ボアズの「変化する音」(1889)という論文であった。 当時、「未開言語」の特徴は・(sound-blindness)にあると言われていた。 それは、ある言語の話者たちの中には、正確な音の認識ができないものがいることをさしていた。 特に、語話者の中にそのような特徴が報告されていた。 ボアズは、この結論を否定する。 たちは自らがとして体得した言語にある音(音素)として、語話者の発音を聞き取っていたため、このような結論を導き出したに過ぎないという。 ボアズの主張は、知覚とは媒介を通して認識されるから、それは統覚であるという言葉に要約される。 ストッキングによれば、1970年以降、多くの者の間では文化を物質文化や行動パターンそのものではなく、媒介として行動に意味を付与するコード体系として理解すようになっていたのである。 における共同作業 ボアズを魅了したカナダ北西海岸地域の諸社会は、すでにの大流行により、人口が激減していた。 それだけではなく、ミッションとカナダはポトラッチの実施を弾圧、禁止した。 ボアズはこのような歴史的変化を問題視しないまま、彼の眼前で不可避に消えゆく社会を記録するという立場をとった。 ボアズの歴史性への無配慮に対して、彼のフィールドワークを援助していたハントは、ボアズとは異なった緊迫性を自らの仕事に感じていたに違いない。 ボアズの関心がモノから思想(歌、神話や物語など)へと移行すると、ボアズはハントに自らが考案したアルファベットによる表記法を教え、ハントに冬の祝祭の中心であるポトラッチにまつわる民俗資料の収集を依頼する。 しかも、ボアズが不在の時も、ハントが「ここに保存する本(Keeping Here Books)」と呼ぶ黒いノートに、ハントはクワクワカワクゥ社会の生活を詳細に記録していた。 ハントは自ら収集した現地語により記載された資料に英語訳を付し、それらの分量はボアズの研究室の棚、「約1. 5メートル」を占有するほどであった。 ボアズとハントとの関係を、人類学者と助手、あるいは研究協力者との関係だと言い切れるのだろうか。 確かに、多くの場合、ボアズはハントの名前を共著者として明記し、記録をのしている。 ボアズは的権威を分散していたともいえる。 しかし、今述べたこと以上に、ハントは、クワクワカワクゥの人々が近代のもたらした苦境を生きのびるために、ボアズに何かを託していたのではなかろうか。 この疑問は、先住民たちのエイジェンシーに関わる。 この問いは、先住民は近代の犠牲者に過ぎないのではなく、近代がもたらした災禍を生き抜くための戦略をもち、歴史の主体になろうとしていた、というしてんの転換から生まれる。 ハントがボアズに託した未来 21世紀において、先住民の研究者たちは、ストッキングの解釈は異なった視点から、ボアズの仕事を復活させている。 例えば、ボアズがハントとともに残した資料は、現地の文化復興に寄与する可能性を通し、世界に向けて先住民たちが近代の一員として生き抜いてきた歴史を証明するだけでなく、未来に向けて西洋文明に対し新たな価値を提示してもいるという。 そのような未来に向けた世界史は、差異によって導き出される対立よりも、ポトラッチのように、多くの異なった社会の人々が参加することにより結びつく、多様性によって特徴づけられるとすれば、それはボアズのヴィジョンとも合致するだろう。 そう主張したい理由は、ボアズは『未開人の精神』において次のように記しているからである。 「外から影響を被っていない民族はいない。 どの民族も近隣の民族から発明やアイディアをそのまま斜陽し、ときには同化吸収している」と。 21世紀、私たちは対立や紛争の原因には差異を過度に強調する世界観の蔓延があると疑うようになった。 そんな時代だからこそ、未来を想像するキーワードとしてを世界の連結を含意する概念として捉え直し、多様性が差異とは異なった価値として示されてきたのである。 先住民の研究者たちは、ハントが交換、互酬性、そして変容を通して連結する世界という価値観をボアズに託したと述べている。 先住民的視点から示されたこの斬新な解釈に従えば、ボアズは世界に対するギフトとして先住民の価値観を伝えた人なのである。 用語解釈 統覚(apperception) 認知とは、知覚システムの媒介があり初めて成立する。 例えば、一言語には明確に区別される音が、その言語を初めて学ぶものにとり、自らが慣れ親しんだ言語にその音がなければ、それを聞き取ることが困難である。 ポトラッチ(potlatch) カナダ北西海岸地域の先住民による。 統治形態であるという解釈もある。 ホストが招待者たちに膨大な量のギフトを分配する祝祭を伴い、1884年に法律で禁じられるが、1950年代にはその法律は無効となった。 xiao9259.

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