織田 信長 豊臣 秀吉 徳川 家康。 【どう違う?】織田信長と豊臣秀吉、そして徳川家康

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の家紋をまとめて解説!

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織田信長は7つも家紋を持っていた! まずは 織田信長の家紋について見ていきましょう。 信長の家紋といえば、こちらの「 木瓜紋」が有名です。 この木瓜紋は 瓜の断面、あるいは鳥の巣をデザイン化したものといわれています。 信長が使っている「五瓜に唐花」と呼ばれるデザインはは断面が五分割されていて、真ん中に唐花という中国から渡来した花の模様があしらわれています。 この家紋は織田家の主家筋に当たる尾張国の守護・斯波氏、または朝倉氏から信長の父・信秀が賜ったといわれています。 木瓜紋そのものは、もとは平安時代の貴族が牛車などにあしらった紋様(これを「有職紋様」といいます)で、戦国時代には朝倉義景や滝川一益が使っていました。 断面のデザインは使う武将によってさまざまなバリエーションがあり、信長が使ったものを特に「織田木瓜」と呼びます。 また、京都・八坂神社をはじめ、スサノオ・牛頭天王を祭神とする全国の神社の多くで神紋に使われています。 また、信長は木瓜紋以外にも、以下の6つの家紋を使用していました。 ・揚羽蝶 もともとは平氏が使っていた家紋。 揚羽蝶紋をあしらった信長の陣羽織が現存しています。 ・永楽通宝 信長が旗印に使っていたと言われています。 ・二つ引両 もともとは足利家の家紋です。 信長が将軍、足利義昭からもらったものと言われています。 ・五三桐 後醍醐天皇が足利家に与え、その後足利義昭が信長に与えた家紋です。 豊臣秀吉が使っている事でも知られています。 ・十六葉菊 もともと皇室が使用していた家紋を、信長が使用を許可されたのです。 ・無文字 禅の世界観である「無」を草書体にした家紋です。 信長は禅に帰依していたと言われています。 豊臣秀吉は「桐紋」を色々とアレンジしていた!? 豊臣秀吉の家紋は「 桐紋」と呼ばれるものです。 この桐紋ですが、桐の葉の上に花の付いた「花序(かじょ)」が3本立っているデザインで、花序に付く花の個数によって分類されます。 そして秀吉が使った桐紋には、「 五三桐紋」と「 五七桐紋」があります。 上の花序に付く花の個数が左から数えて3個-5個-3個のものを「五三桐」、そして下の5個-7個-5個のものを「五七桐」と呼びます。 同じように、信長から秀吉へ下賜されたものと考えられます。 一方、五七桐紋は豊臣姓を名乗るようになったとき、当時の後陽成天皇から与えられたものです。 スポンサードリンク 秀吉も信長に従い、家臣に自分の家紋を下賜していますが、信長のように「そのまま」与えることはしていません。 下賜用に五七桐を簡略化した、以下の「 太閤桐」という家紋をつくりだしたのです。 これは、権威づけとしての「家紋の下賜」は踏襲したいけれど、自分の家紋の完全コピーをあげると、家紋が軽々しくなってしまうから替わりのものを…という考えの表れなのでしょう。 ところで、「信長から五三桐紋をもらうまでの秀吉は、家紋を持っていなかったの?」という疑問が残りますよね。 木下藤吉郎と名乗っていたころには、こちらの「 立ち沢瀉(おもだか)紋」を使っていました。 この紋は妻・ねねの実家である杉下家の家紋でもあります。 秀吉の出自ははっきりせず、家紋を持つような家の出ではなかったと思われます。 杉下家の家紋を借りたのかもしれません。 徳川家康の葵紋は将軍家で独占!だけど例外も!? 最後に、 徳川家康の家紋である「 葵紋」についてご紹介します。 こちらの円の中に葵の葉を三つ配した「 三つ葵紋」は『水戸黄門』をはじめ、江戸時代を舞台にした時代劇ではおなじみの家紋ですね。 徳川家康は「徳川」を名乗る前、松平家康と称していました。 松平氏は三河に数多くいた豪族のひとつです。 三河の豪族たちには京都・上賀茂神社の神官・加茂氏と関係が深い者が多く、彼らは上賀茂神社の神紋である葵紋を使うようになりました。 上賀茂神社の神紋はフタバアオイです。 松平氏の紋は、丸の中に葵の葉と茎を配したものでした。 その後、家康が徳川姓を名乗り、豊臣家を倒して政権を奪うと、朝廷は家康に桐紋を与えようとします。 しかし、家康は、信長や秀吉も受けた桐紋を受けようとしませんでした。 スポンサードリンク 将軍になった家康は、丸の中に葵の葉を三つ配した「三つ葵紋」を使うようになります。 その上、 葵の葉を将軍家以外が家紋に使うことを禁じました。 逆に、天皇家とそこに連なる者だけが使えた桐紋や菊紋を自由に使えるようにしたのです。 家紋の権威を完全にすり替えてしまったわけですね。 家康の家臣で「徳川四天王」の一人・ 本多忠勝です。 徳川家きっての古参家臣である本多家ですが、本多家もまた三河の豪族であり、上賀茂神社の神官を祖とする家柄でした。 奏した経緯もあり、家康もさすがに禁止を強要することができなかったようで、本多家は根元から三本の茎が立ち分かれ、それぞれに葵の葉がついた「 本多葵」を用いました。 この記事のまとめ 三英傑の家紋というテーマで、信長、秀吉、家康の家紋についてご紹介しました。 この三人の家紋を追っていくと、朝廷や自分の家臣との関係が見えておもしろいですね。 家紋から見る限り、信長が古い権威に比較的従順であるのに対し、秀吉は家紋を家臣に与える事で政権をより強固にしようとしたのかもしれません。 また家康の家紋からは、朝廷の権威を完全に江戸幕府の格下に置こうとする姿勢がうかがえます。 家康や将軍家が「家紋」を使って家の格を厳密に決め、支配体制に利用したからこそ、江戸時代は幕末までは幕府を脅かすような大きな戦乱もなく、安定したのかもしれませんね。

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意外!?信長・秀吉・家康の本当の性格とは?|出陣!歴史ワールド|ポプラ社

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「織田信長ってどんな性格?」 「豊臣秀吉ってどうやって足軽から天下人に成りあがったの?」 「徳川家康は何が優れていたの?」 この3人 三英傑 の性格や政策の違いって気になりますよね? 3人の性格をことで有名なのが下記の歌。 織田信長「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」 豊臣秀吉「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」 徳川家康「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」 これはそれぞれ、信長の「短気」、秀吉の「自信家」、家康の「忍耐強さ」を表しています。 では、本当に三英傑はこのような性格だったのでしょうか? 今回は彼らがどのような政策を行ったのか改めて確認し、そこからに彼らの時代を俯瞰してみることとしましょう。 海外進出を目指し、宗教勢力の危険性にいち早く気づいた織田信長 楽市楽座と関所の撤廃 信長が行った政策の代表格は楽市楽座ですが、政策自体は他の大名も既に行っており、信長が特別早かったわけではありません。 まずは、その事を念頭に置いておいてください。 では信長の何が特徴的だったのかというと、楽市楽座という名前を制令として出したことです。 この時代の商業はその土地ごとにある座・株仲間らによって利益が独占されていましたが、信長はこれに対して商業を大名が統制するように誘導し、新興業者でも盛んに商売ができるように自由取引市場を作ることで利益を生み出そうとしました。 これによって信長が支配する土地は圧倒的な収益を上げることに成功しますが、その本当の狙いは商人を意図的に増やすことで彼らを信長の支配下に集めることでした。 既得権益である座も決して徹底的に攻撃を受けたわけではなく、むしろ場合によっては普通に存在します。 これはどういうことかというと、楽市楽座というのは自由に商売を行っていいとは言いますが、実のところそうして商人を増やして囲い込み統制するというのが本当のところでした。 信長のもう1つの代表的な政策は関所の撤廃です。 この頃の関所は通過するために税金を取るシステムがありました。 本願寺などはこれで暴利を貪っていましたが、信長は領内における不必要な関所を廃止し、経済と流通を活性化させることに注力しました。 信長・秀吉に仕えた千利休・今井宗久といった茶人達は大坂・堺にて交易を貿易を行い膨大な利益を揚げていましたが、当時は茶器や舶来品が大流行にしており、彼らは金持ちである大名相手に商売を行っていました。 信長はこうした海外貿易にも積極的だったのは有名ですね。 宗教に対する姿勢 戦国大名の中でもいち早く京都の足利将軍家を擁して天下に号令をかけた信長ですが、彼の事績を追ってみると、信長の最大の宿敵は実は戦国大名ではなかったことがわかります。 信長が最も時間をかけて追い詰めていった勢力は大坂本願寺です。 先述の通り、当時の寺社・宗教勢力といえば経済力はおろか大義名分を掲げては大名を突き動かして軍事行動を起こす、戦国大名にとっては最も厄介な勢力でした。 本願寺近辺の機内勢力はほぼ本願寺の息がかかった大名ばかりで、信長は上洛以来とても手を焼いていました。 信長と言えば、「第六天魔王」と自分を誇示する考えを持っていましたが、これは実は本願寺や朝廷といった既得権益を有する勢力に対する宣戦布告といった趣向の方が強いのです。 しかし、信長自身は自分の信仰は法華宗であることを公称しており、決して仏教が嫌いだったわけではありません。 これは『三国志』の曹操が凄まじい武力を有する黄巾党や五斗米道の信者を危害さえ加えなければそのまま信仰を容認し、さらには自軍に加えたというものとどこか似ています。 有名な比叡山の焼き討ちに関しては、当時の比叡山の僧の退廃した実態を見て攻撃したともいわれており、今日我々が知っている信長像はほぼイエズス会のルイス・フロイスが記した「日本史」によるものであることを留意する必要があります。 実際、信長は神道を保護する政策も割と頻繁に発令していますし、武力さえなければその実宗教を人並みに愛好していたと考えるべきでしょう。 朝廷との関係 信長は朝廷に対してはかなり攻撃的な態度をとっていたことで知られています。 以前、安土城の作りを再現したCGをテレビで見たことがあるのですが、自分がいるべき天守閣は城の中で最も高い位置に存在し、その下に各城郭、それに城下町が整備されていました。 そして、最大の特徴は天守閣の1階近くに天皇を迎える御所を建てていたことです。 信長は当初は朝廷にはかなり温和な態度をとっていましたが、次第に朝廷のいうことを聞かなくなったとするのが一般的なイメージでしょう。 当時の正親町天皇 おぎまちてんのう は、信長政権末期になると正式に譲位をしようかと半ば本気で考えていたような節があります。 しかし、内外に問題を抱えた信長の経済的理由によって結局はおじゃんとなっています。 後の豊臣・徳川政権とは異なり、信長時代に官位を受けた家臣は意外なほど少ないです。 これはよくよく考えると、信長は天下統一を成し遂げたわけではないし信長自身も右大臣になった以外はそれほど頻繁に官職を賜ったわけでもありません。 晩期の信長にとっては朝廷の官位など大した意味はなかったのかもしれませんが、受け取れるだけの経済的根拠がなかった可能性もあります。 1580年 天正8年 、信長は突如一部の家臣に追放命令を出します。 対象となったのは、佐久間信盛・安藤守就・林秀貞といった、長く信長に仕えた功臣達。 彼らは突如20年以上も昔の謀反疑惑を追及されてリストラされたわけですが、もしかしたら朝廷からの譲位を受けるために老臣をリストラして人件費を削減しようとしたのではないでしょうか? 実は信長は本能寺の変の直前には関白・太政大臣・征夷大将軍のいずれかを朝廷から賜る予定がありました。 この頃になると信長は統一した天下統一を果たした暁には暦を自分の故郷・尾張で使用しているものに統一するという宣言を出しており、もう心の中では半分以上天下人のような意識でした。 しかし、それも本能寺の変で全ては闇の中、安土城も謎の放火によって焼失し現在信長政権の目的を知ることはできなくなりました。 秀吉は信長や家康とは違い、全くの卑賎の身の出身、下剋上の最たる例ともいえる成り上がり者でした。 彼の最大のコンプレックスは、政権樹立を考えた時点で無位無官、姓も持ち合わせてないという事。 朝廷からもらう官位は大名を統制する権威付けとして必須でしたが、文字通り力づくでのし上がった秀吉にはこうした大義名分がありませんでした。 小牧長久手の戦いの後に家康がなかなか秀吉に従わなかった理由の1つに官職上の優劣があったのです。 秀吉は後に無理やり近衛前久の養子になろうとするなど、朝廷にはとにかく力づくで対応していました。 彼が関白に就任した後は、その権威を利用してそれに従わない大名 島津・北条など を討伐の対象とするなど、朝廷を権威づけに利用していました。 朝廷の権威は秀吉にとっては絶対不可欠なものでした。 これをうまく利用して秀吉は主君であるはずの織田家を上回る力を得て、さらには公家にしかもらえないはずの官位を諸大名にバンバン与えます。 秀吉自身はあくまでも天皇の臣下でしかありませんが、実際は歴史上よくある傀儡 かいらい 政権のような形として成立しています。 検地と刀狩 一大名であった信長とは違い、日本列島全てを掌握しきった秀吉は、朝廷の名を借りて大名同士の私闘や略奪行為を禁止する命令を出しました。 惣無事令や刀狩令などはこの政策の一環です。 戦国時代の代表的な土地制度は貫高制でしたが、貫は度量衡としてはとても不安定なものであったので、秀吉時代に石高制に変更されています。 信長時代にも導入されていましたが、秀吉はこれを全国の大名に反映させることとなりました。 太閤検地は新しい度量衡に沿って行われる土地計測や経済力計測であり、秀吉政権の黎明期から漸進的に行われてきました。 石高制はご存知の通り江戸幕府でも引き続き採用され、明治維新まで長く使われることとなるのです。 宗教に対する姿勢 秀吉は信長以上に宗教に対して圧力をかけていました。 本願寺の流れを汲む根来・雑賀などは豊臣政権の初期に滅ぼされています。 かの有名な高野山は、大名が出家した後に庇護を受ける場所としても有名でしたが、秀吉はこれを武力にて降伏させ支配下に置いています。 キリスト教に対してもバテレン追放令などが知られ、とても強硬な態度で臨んだと言われています。 ただ、実際は発令当時は領内での普及は点在的に認められていました。 しかし公式にはイエズス会やスペインのフェリペ2世が日本を攻めようとしていたとする事を知って、交易好きだった秀吉にしては急に弾圧を徹底するようになります。 秀吉は信長も行おうとしていたかもしれない大陸進出を実際に行い、彼の視野は世界へと広がっていきました。 しかし、その夢は果たせることがなく結局無駄に国費を浪費させてしまったに過ぎませんでした。 大陸進出 秀吉最大の野望・大陸進出ですが、もちろんこれには多くの者が反対していました。 後継者と目された甥の関白・秀次はその筆頭格で、彼は形式上既に豊臣家の家督を相続している存在でした。 秀吉は明を倒して北京に住み、日本は秀次にあげれば事足りるという発想でした。 しかし秀次は、日本を治めるのに手いっぱいなのにその上海外に出るなんて考えられないと激しく批判していました。 ここで言われるのは、秀吉配下の武将達が天下統一後、途端に活躍の機会を奪われてしまったのでその不満を海外に向け発散させることが目的だったというのがありますが、当時の雇用情勢が如何なるものだったのかはよくわかりません。 確かに、これまで著者が書いた記事を見ると武辺者には厳しい世になったのかもしれませんが果たして・・・・・。 あまつさえこの時期、秀吉には喜ばしいことが起こります。 実子・秀頼の誕生です。 秀吉は当時秀次・秀勝・秀保の3人に日本を任せようとしていましたが、彼らは揃って早くに亡くなっています。 秀吉は長年実子に恵まれなかったため、秀頼をどうにか後継者にしようと考え秀次排除をかんがえたのでしょうか? 大陸進出反対はその恰好の口実でした。 こうして、秀吉は反対者を次々とつぶしていきます。 秀次はその大々的な犠牲者とみるべきでしょう。 秀吉は親族が少ないことから本当は彼らを大事にし真剣に付き合うべきでした。 彼は卑賎の身でありながら幸運に恵まれて天下人にまで登り詰めました。 彼はあちこちの大名を養子にするなどして政権の命脈を保とうとしましたが、その辺りのさじ加減を誤ったために政権は短期で崩壊することとなるのです。 秀吉の大陸進出が失敗に終わると、彼は国内外の情勢不安を理由に鎖国を選択します。 当時のアジアはスペインらによって好き勝手にされている状態でした。 貿易を規制するのは当然の流れかもしれません。 しかし、実際は各国との貿易は続けており日本の発展のためには外国人を積極的に登用したのも家康です。 三浦按針などはその代表格でしょう。 家康は東インド会社との貿易や李氏朝鮮との貿易には積極的だったので、危害を加えない相手には普通だったのは信長・秀吉と共通しています。 しかし、幕府から特別に許された者を除いては妄りに外国と取引をした場合、最悪は斬首という厳しい処罰を設けていたのもれっきとした事実です。 禁中並公家諸法度・武家諸法度 江戸幕府は外国には勿論、日本列島の大名や朝廷にもとにかく厳しく規制を設けたことで知られています。 禁中並公家諸法度・武家諸法度等は彼らに対する訓戒と統制の意味を厳しく設けたものです。 これによって取り潰された大名は数多く、関ヶ原の戦いで功績を挙げたはずの福島正則なども後に勝手に城を修理したという言いがかりで処分されてしまいます。 江戸幕府は特に外様大名に関しては厳しく接していました。 なぜなら、外様大名の大半は元は反徳川の勢力であったり、親徳川であっても勢力が大きいゆえに警戒されていたとされる大名が多かったからです。 例えば、仙台の伊達政宗は江戸の町の整備をわざわざはるばる会津から来て行うように命令され、なおかつその費用は幕府が負担してくれないので当然のように仙台藩が負担していました。 伊達政宗が豊臣・徳川政権下でもなお天下を狙おうとしていたのは皆さんも周知の通りで、家康や秀忠が知らないわけがありません。 政宗の生前の夢は100万石を手にすることでしたが、実質の生産量で言うと確実に100万石は超えていたようです。 さて、武家諸法度は江戸幕府成立の際に家康が武家に向けて発令した大名家への訓戒と幕府に従うための心構えとしての条文ですが、禁中並公家諸法度は文字通り公家や皇室に向けた訓戒と戒律でした。 その中で特に気になるのが「武家の官位と公家の官位は別とすること」という条文です。 これは完全に武家でありながら関白になった豊臣家のような存在を二度と出さないようにするための決まりで、唯一徳川家を除きその他の武家は一切公家の官位を踏襲してはならないというものでした。 禁中並公家諸法度は大政奉還まで一切修正を加えられることなく適用されました。 こう見ると、家康の江戸幕府は何とも保守的で厳粛な政治体制だと感じることでしょう。 とても積極的に海外に目を向けていた信長・秀吉の時代とは違い、世界では覇権を握っていたスペインのフェリペ2世が亡くなり 秀吉が亡くなる数日前の事です 、ヨーロッパの勢力が徐々にアジア貿易圏から遠ざかっていった事でした。 そもそも江戸幕府成立期にはアジア貿易圏も殆ど開拓し終えてしまい 東南アジア除けば東アジアは地理的にもほぼ日本が最終地点だったでしょう 、日本市場は安定期を迎えていました。 それに秀吉時代から東南アジアでは植民地支配が始まっており、日本も狙われていたかもしれないという考えは当時からありました。 秀吉の禁教令に続き、家康もそれを継続せざるを得ない状況でした。 最も、これには近代の文学者達を中心に否定的な意見があり『鎖国のおかげで日本人は内向きな性格がどうしようもないくらい根付いてしまった』という見解もあります。 しかし、当時の世界情勢を見ると果たして信長時代と同じように貿易を行うことが正解だったかどうか分からないものです。 しかし、江戸時代に作り上げられたものは皆現代まで受け継がれているものです。 家康の功績はそれだけでも信長・秀吉には比肩しえないものでしょう。 三英傑全員に共通することは、国内の統制に目を向けながらも海外を視野に入れていたことです。 しかしその形は信長・秀吉時代と家康以降では形が異なってきます。 信長・秀吉の時代は1にも2にも攻めの姿勢でとても積極的にイエズス会や南蛮の品物を取り入れていました。 しかし、世界を目指すことは同時に国内に不安定を呼び寄せてしまったようです。 彼らの政策の弱点の1つには、宗教勢力を敵に回してしまったということでしょう。 当然、家康も本願寺の跡目争いに言及したりと必ずしも寛容だったわけではありませんが、宗教を敵に回すと国内の厄介ごとが増えてしまうのは致し方ない事です。 秀吉が亡くなった時点で、日本の宗教勢力や内政構造はボロボロになっていました。 その後を継いだ家康が秀吉時代の悪習だった余りにも掟破りな政治を直ちに取りやめ、厳格なリールのもとで国を統制する流れに至ったのは当然の流れかもしれません。 著者個人としては、小さな島国を世界の中の日本という位置づけにしたのは信長、世界の中の日本を売り出そうと思い失敗したのが秀吉、秀吉の失敗を鑑みて売り方を改めたのが家康という感じですが、皆さんはいかがでしょうか? ちなみに著者が一番好きなのは最初は信長でしたが、江戸幕府の政治について勉強した後は家康が一番好きになりました 秀吉は正直あまり・・・・汗。 彼が作り上げた日本はそのまま現代にまで通じる精神が生まれた時代だなあと、感じるからです。 点数をつけるとしたら、短命に終わった秀吉は67点、惜しくも構想を実現できなかった信長は73点、日本の形を完成させた家康は82点といったところでしょうか。

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【大喜利】戸愚呂(○○)を考えよう/織田信長/豊臣秀吉/徳川家康/三英傑/戸愚呂弟/戦国武将/おしゃべりペット/コント/幽遊白書

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Contents• 織田信長と徳川家康の関係とは 江戸時代に創られた狂歌に「織田がつき羽柴がこねし天下餅座して喰らふは徳の川」があります。 織田は織田信長、羽柴は羽柴秀吉 後の豊臣秀吉 、徳の川は徳川家康を言い表した狂歌はあまりにも有名です。 この狂歌にあるように約100年続いた戦国時代を終焉に導き、天下統一を果たしたのが3人の武将です。 ところで、この3人はそれぞれに密接に結びついていたことでも知られています。 簡単に言えば、織田信長の家臣が羽柴秀吉。 そして、織田信長の同盟者が徳川家康です。 この記事では3人のうち、織田信長と徳川家康の関係を時系列でご案内をしていきます。 それでは最初に織田信長と徳川家康の生没年をご紹介します。 織田信長 1534年~1582年 徳川家康 1543年~1616年 織田信長と徳川家康は約9歳の年の差があったようです。 スポンサーリンク 織田信長と徳川家康の関係1 出会い 織田信長は、織田信秀の嫡男として尾張国に生まれます。 尾張国の守護は斯波氏。 しかし斯波氏は衰退していて、尾張国上四郡を岩倉織田氏、下四郡を清州織田氏の両守護代が治めていました。 この中で清州織田家には清州三奉行がいましたが、このうちの一人が織田信秀です。 ただ実際は清州織田家も衰退していて、織田信秀は大きな勢力を保っていたと考えられています。 一方の、徳川家康は三河国の土豪松平広忠 1526年~1549年 の嫡男 幼名竹千代 として生まれます。 松平氏もそれなりの勢力を保っていましたが、松平広忠の父である松平清康は1535年に家臣に殺害され24歳で亡くなっています。 そのため後を継いだ松平広忠は僅か10歳にして松平氏の当主になります。 もっとも時は戦国時代。 年少の松平広忠に領地を統べる力はありませんでした。 当時、三河国の東には今川義元、西には織田信秀という実力者がいて、松平氏はどちらかの庇護を受けなければ生き残れない状態です。 そこで、松平広忠は今川義元を頼るため竹千代を人質に送りますが、途中で家臣の裏切りに会い、竹千代は織田信秀の元に送られてしまいます。 これが1547年、この時点で織田信長13歳、徳川家康4歳の頃です。 その後1549年の頃、徳川家康は織田氏を離れ、改めて今川氏の人質になります。 織田信長と徳川家康が同じ尾張国にいたのは僅か2年。 また、織田信長と徳川家康の動向を示した文書などは残されていませんので、何の証拠もありません。 ただ、織田信長は当時から「うつけ者」と呼ばれ自由奔放な行動をとっています。 また、織田家の徳川家康に対する監視もそれほど厳しくなかったと考えられています。 そのため、この時期に何かしらの接点があったはず。 このように考えられることが多いようです。 織田信長と徳川家康の関係2 清州同盟 1552年、織田信秀が亡くなります。 その後に織田家は内部分裂の状態に陥りますが、1558年の頃になると織田信長は内紛を治めただけでなく、尾張国の統一に成功をします。 そして迎えたのが1560年の桶狭間の戦いです。 一方、1549年に今川氏に送られた徳川家康は、人質でありながらもしっかりとした教育を受けて育ちます。 また1555年には元服をし、今川氏の一族である瀬名 後の築山殿 を正室に迎えます。 さらには今川氏の元で初陣も果たしていますが、かといって本来の領国である三河国の岡崎城に戻ることは許されませんでした。 桶狭間の戦いで、徳川家康は今川氏の先鋒を務め戦果をあげます。 しかし、桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、徳川家康は岡崎城に向かいます。 それまでの岡崎城は今川氏が城代を置いていましたが、既に退去していたことから徳川家康は岡崎城に入城をします。 今川義元の後継となったのは今川氏真です。 しかし岡崎城に戻った徳川家康は、今川氏真の命令を聞かず、独立の気配を見せ始めます。 そして行われたのが1562年の清州同盟です。 清州同盟が結ばれたのは、織田信長の居城であった清州城。 そして、この同盟は織田信長と徳川家康の間で結ばれたものです。 清州同盟が締結されたことで、徳川家康は東の今川氏真とは決定的な対立関係に陥ります。 一方、織田信長は美濃の攻略、そして上洛をも考えていました。 その時に東の徳川家康が敵であると、相当に厄介なことになります。 徳川家康にしてみたら単独では生き残れない。 東の今川氏を頼るよりは、西の織田氏を頼る方が見込がある。 そんな思いが清州同盟に結び付いたのかもしれません。 また、織田信長にしても東西両面に敵を抱えるわけにはいかない。 そんな思惑があって清州同盟が結ばれています。 清州同盟にはある大きな特徴があります。 それは清州同盟は一応は対等な関係であったものの、実際には徳川氏の負担が大きかったこと。 そしてこの同盟は、織田信長が本能寺の変で亡くなるまで、続いたことです。 同盟締結は1562年、本能寺の変は1582年なので、清州同盟は20年も続いていたことになります。 スポンサーリンク 織田信長と徳川家康の関係3 本能寺の変まで 織田信長も徳川家康も数多くの戦いをしていますが、ここでは織田信長と徳川家康が共に臨んだ戦いを中心にお伝えします。 1568年 織田信長の上洛に際して、徳川家康が援軍を派遣する。 1570年 織田信長が朝倉義景と浅井長政に挟撃された金ヶ崎の戦いに徳川家康も参陣。 羽柴秀吉と共にしんがりを務める。 織田信長が朝倉義景と浅井長政戦った姉川の戦いに参陣。 大きな活躍を見せる。 1573年 三方ヶ原の戦いで武田信玄と徳川家康が戦った時、織田信長が援軍を派遣する。 三方ヶ原の戦いは武田信玄の圧倒的勝利に終わる。 1575年 武田信玄が亡くなり後継者となった武田勝頼と、織田信長と徳川家康の連合軍が対峙した長篠の戦で、織田・徳川軍が大勝利。 1578年 織田信長より、築山殿と松平信康が武田氏への内通ありとの嫌疑をかけられる。 築山殿は徳川家康の正室。 松平信康は徳川家康の嫡男。 1579年、徳川家康は築山殿を殺害し、松平信康に自害を命じる。 1582年 3月、織田信長と徳川家康は武田氏の領地に侵攻し、武田氏を滅亡に追い込む。 6月、本能寺の変 清州同盟が20年も続いた理由とは 戦国時代の同盟はお互いの利害で結ばれたものがほとんどで、長く続くというのは案外と少ないものでした。 その中で20年も続いた清州同盟は稀有なものと言えるのではないでしょうか。 では、どうして清州同盟は長く続いたのでしょうか。 その理由は、徳川家康によるものが大きいと考えられています。 例えば織田信長が上洛してしばらく後に織田包囲網が築かれます。 織田包囲網は足利義昭を中心として、武田信玄・朝倉義景・浅井長政などで構成されていて、一時は織田信長も危難の時期を迎えていました。 この時、徳川家康は織田信長包囲網に加わるようにという話しを受けています。 仮に徳川家康が同意していたら、その後の歴史も大きく変わった可能性もありましたが、徳川家康はこれを拒否。 結果的に織田信長は生き延びることができています。 また、本来の清州同盟は織田信長と徳川家康の対等の関係でした。 しかし、織田信長の周囲から敵がいなくなるにつれ、織田信長が主で徳川家康が従のような関係に変質をしていきます。 そして、織田信長の命令に逆らことができなかった徳川家康は、築山殿や松平元康を失っています。 こちらについては、織田信長主導で築山殿や松平元康を葬ったという説もあれば、逆に徳川家康が織田信長に頼んで築山殿や松平元康を葬ったという説もあります。 しかし、何れにしても織田信長の命令で、徳川家康が動くという形が出来上がっていたようにも思われます。 後世、徳川家康については「律義者」という評価が聞こえてきますが、こうした事例がその評価の元になったのではないでしょうか。 まとめ 清州同盟は本能寺の変により終わりを迎えます。 その後の、徳川家康と織田氏の関係はどうだったのでしょうか。 まず、織田信長の家臣であった羽柴秀吉は織田氏に背を向けるような行動をします。 山崎の戦で明智光秀を破った羽柴秀吉は、織田家の後継者を決める清須会議で主導権を握ります。 織田家で重臣の位置いた柴田勝家は、織田信長の三男である織田信孝を推します。 羽柴秀吉は、本能寺の変で織田信長と共に命を落とした嫡男織田信忠の嫡男である三法師を推します。 織田信長の三男又は嫡孫を選ぶかということですが、この時の三法師はまだ幼児です。 羽柴秀吉は三法師を織田信長の後継に据えることに成功するとともに、後には織田信孝を自害に追い込んでしまい、権力を織田氏から自分のものにしようと図っています。 一方の徳川家康は、羽柴秀吉に追い込まれた織田信長の次男織田信雄の願いに応じて、羽柴秀吉に戦いを挑みます。 これが1584年の長久手の戦いです。 長久手の戦いは、戦そのものは徳川氏の勝利でしたが、羽柴秀吉の調略にあい、羽柴秀吉と織田信雄が和睦をして終わりを迎えます。 このように織田信長が亡くなり、すぐに野心をむき出しにしたのが羽柴秀吉。 一方、きれいごとだけではないかもしれませんが、織田家に助勢をした徳川家康。 徳川家康が律義者であったからこそ、織田信長の死まで清州同盟は続いたと言えるのではないでしょうか。

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