いわき 市 鹿島 街道 事故。 いわきで崖崩れ、県道通行止め 降雨なく地質など調査へ

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いわき 市 鹿島 街道 事故

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いわきで崖崩れ、県道通行止め 降雨なく地質など調査へ

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『鹿島街道』(平成29年1月18日市公式Facebook投稿)

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いわきの『今むがし』Vol. 小名浜の魚を平に運ぶため盛んに利用されたものの、途中には飯野村と鹿島村の境に位置する「くうち山」(空知山、空地山、軍司山、軍治山、郡司山など、さまざまな表記)の峠、鹿島村と玉川村の境に位置する御代坂の峠が控え、いずれも難所となっていました。 平と小名浜を結ぶルートであったことから、平町と小名浜町が中心となって、明治時代から整備の要望活動を展開。 明治15 1883 年頃、県によって、荷馬車が通行できる程度に整備され、明治時代末には、くうち山、次いで御代坂の隧道(ずいどう・トンネル)が切通しに切り割りされます。 さらに、大正7 1918 年開会の福島県議会では、県道改修に関する建議案「小名浜平線中、軍司山、御代坂ノ両所切リ下ゲノ件」が提出されて、可決されています。 当時、主要道路であっても、維持・改修するためには、決まって沿線市町村の負担が伴い、これが市町村の財政を圧迫していましたから、まずは県道への組み入れは市町村にとって大きな課題だったのです。 県道昇格となれば、市町村費が軽減されるからでした。 その結果、全国各地で府・県議会議員を巻き込んで道路格上げの請願や陳情が繰り返されることになりました。 全国各地域から道路の格付けとこれに見合った道路整備の要望が高まるのを受けて、政府は大正8 1919 年、これまでの国道、府県道、里道(りどう)を国の公物としたうえで、管理区分を国道、府県道、市町村道(里道の一部を「道路法」で市町村道と認定)に区分けした「道路法(旧法)」を公布(大正9年4月施行)しました。 これにより、鹿島街道は正式に県道に位置づけられ、整備対象路線となりました。 しかし、これで整備が飛躍的に進むわけではありませんでした。 道路の維持・改修を促したのは自動車の登場によるものでした。 これまで以上に、道路破損が進み、改修や拡幅を迫ったのです。 特に、大正12 1923 年9月に発生した関東大震災では、鉄道路線が壊滅的な被害を受けたなか、道路のガレキを除去した後に走った自動車の有効性が認識され、乗合バスの運行が、一気に全国に広がりました。 このことにより、県費によって鹿島街道も道路改修が施工され、昭和5 1930 年に乗合バスが走るようになりました。 一方で、このころ、平-小名浜を結ぶ自動車専用道路が計画されました。 開通すれば半分弱20分内外に時間短縮される、と夢のような計画に対し、昭和9 1934 年6月14日付『磐城新聞』は「いつの事やら、実現は蓋(けだ・まさしくの意)し程遠い将来である」と報じていました。 その後、戦時色が濃くなってガソリンの輸入が途絶え、実現に向かうことはありませんでした。 昭和20 1945 年8月に戦争が終結すると、戦争で荒廃した日本ではさまざまな分野で復興が図られました。 石炭を産出するいわき地方では工業が盛んになり、道路整備は産業発展のため重要課題の一つとして取り上げられるようになります。 このうち、鹿島街道についても事業着手に向け要望活動が続けられ、この結果、新潟と小名浜を結ぶ国道として整備することについて、政府も認めるようになり、計画路線として検討されるようになりました。 ところが、昭和28 1953 年1月、素案としてのぼっていた小名浜-新潟の2級国道の建設は建設省道路審議会において、福島県側の終点を平市とする旨の結論を出されてしまいました。 平-小名浜の除外理由は、「基準外であるため」でした。 基準とは、「人口10万以上の都市と都市を通ずる」「1級国道と1級国道を通ずる」「特定重要港湾を通ずる」「市と市を通じる」という道路4原則でした。 小名浜町の場合、基準のいずれにも当てはまらなかったのです。 このため、鹿島街道の国道化を含め、地域を挙げての事業推進を図る必要があるとして、昭和28 1953 年9月に、常磐地区総合開発期成同盟会(会長=県知事)が発足。 関係者は各種整備目標の一つとして、平-小名浜の国道昇格をめざしました。 その一方で、県はともあれ鹿島街道の整備を単独で進めることとし、一般失業対策事業の予算枠取り(国庫負担3分の2、県費補助3分の1)により、昭和28年度からの5か年事業の計画を立て、昭和28年6月に「県道平小名浜線失業対策道路改良工事起工式」を行い、工事に着手しました。 ルートとしては、戦前に立てられた自動車道路が基本となり、山を切り開き、田畑を埋め、自動車が快走できるルートが選ばれました。 しかし、機動力は限られていて稼働率が低いうえに、平市街南域に帯のように立ちはだかる通称・谷川瀬山の開削が難関となって、一向に進ちょくしませんでした。 谷川瀬山の開削だけでも、7年を要する状況でした。 昭和30年代になると、日本は高度経済成長によって大きく変化し、自動車の性能開発と道路整備は著しく進んでいきます。 大都市だけでなく、地方にも開発拠点を構築し、日本全体の底上げを図る「新産業都市建設促進法」が昭和37 1962 年に公布され、地域指定の申請者としての立場だった県(県知事)は指定確保を模索するなかで、平-小名浜を結ぶ道路の重要性を再認識し、新潟-平の延長路として、国道と同じレベルの道路として完成させ、ひいては国道編入を図ろうと、県道の建設に予算を振り向けるようになりました。 当時、鹿島街道における車の交通量は、旧来の隘路(あいろ)だけに1日平均300~400台程度。 2 鹿島町を北方から小名浜に向かって見る(平成27年12月、いわき市撮影) 昭和30年代半ば以降、途中鹿島街道の用地買収に手間取りましたが、経済企画庁は昭和38 1963 年度予算として、同年10月、調整費(経済企画庁長官が景気の動向を判断しながら、公共事業費を繰り上げて支出するもの。 福島県では初めてのケース)を調達して、完成時期を1年繰り上げることができるよう事業予算を投入。 この結果、昭和39 1964 年4月、平字菱川町-小名浜本町通りが2車線により開通しました。 「常磐・郡山地区」が新産業都市として昭和38年7月に内定を得られており、通産省や建設省がこの路線の重要性を認めた結果となりました。 舗装工事(昭和36年から部分的に施工)については、引き続き昭和39年度から県の公共事業として本格的に行われ、昭和41 1966 年6月に完成しました。 これで平-小名浜は15~20分で結ばれるようになりました。 いずれにしても国道昇格への布石として整備してきたものでした。 昭和39 1964 年10月からは路線バスが新ルートで走りました。 従来の55分が35分へ大幅な時間短縮となり、さらに、舗装開通によって25分へ短縮されました。 しかし、数年後には、鹿島街道が渋滞道路化していきます。 主な理由としては、(1)国道6号の混雑を避け、鹿島街道に車の流れが入ってきたこと、(2)昭和40年代から50年代にかけてモータリゼーションが急激に進み、クルマの台数が飛躍的に増えたこと、(3)工業化に伴い、小名浜臨海工業地帯の貨物輸送量が急増したこと、(4)鹿島街道沿線に商業施設が進出、さらに住宅団地開発が相次いだこと-などが挙げられます。 昭和44 1969 年3月に家具センターが平市街寄りの谷川瀬に進出、さらに同年12月、沿線に県内一の規模の家具センターが鹿島町の田が広がるなかに大きな駐車スペースを確保してオープンしたのを皮切りに、鹿島街道の両側には続々と店舗が進出していきました。 昭和43 1968 年に実施された交通情勢調査では、早くも鹿島街道の「拡幅は必至」と評価されました。 舗装開通後、わずか2年後のことでした。 (2)について、その後のいわき市の自動車保有総数をみても、昭和45 1970 年で4万2,912台、昭和50 1975 年で8万1,961台、昭和55 1980 年で11万4,628台と、急増しており、その兆候は市内の平、植田などの市街や交通結節点において交通渋滞となって、あらわれていました。 また、交通量の増加で道路損傷も著しく、このためには舗装補修工事が鹿島街道だけでなく、他の国道や県道などにも及び、交通渋滞を加速化させました。 この状況のなか、国道新潟-小名浜整備促進期成同盟会(会長=県知事)は整備案件の一つとして平-小名浜間県道の国道編入に加えて、拡幅整備を盛り込み、建設省をはじめ積極的な働きかけを行いました。 一方、鹿島街道を終点としていた国道6号常磐バイパスの路線も変更せざるを得なくなります。 昭和45 1970 年当時まで、同バイパスは鹿島街道の中ほど、鹿島町までの計画でしたが、増大する鹿島街道の交通量を緩和するため、昭和48 1973 年に、さらに北へ延長し、平市街を迂回するルートに計画変更しました。 こうした計画変更のなか、同バイパスの建設が北上するにつれて、これに接続する鹿島街道への車の流入が増すという要素が加わり、鹿島街道の交通渋滞は、日を追うごとに激しくなっていきました。 県いわき建設事務所の調査によると、自由ケ丘前の自動車交通容量は時速40kmで約1万2,000台(交通網の整備により、その後可能交通容量は昭和60年で1万5,500台へ)とされましたが、昭和46 1971 年には1万4,200台とすでに容量をオーバーし、昭和52 1977 年に約2万2,100台、昭和60 1985 年に約2万6,400台へと年々増加の一途をたどりました。 鹿島街道の舗装開通から5年。 昭和46 1971 年には拡幅・新線の調査に入り、昭和48 1973 年8月に平字正内町-小名浜字船引場12. 38kmが都市計画道路として計画決定されました。 翌年にはこの区間のうち、鹿島町御代-平谷川瀬が具体的には、翌年、常磐上矢田町(若葉台入口)-鹿島町御代の7. 12km区間では現道拡幅方式による幅員25m、片側2車線の方式が取られ、また、常磐上矢田町以北の4. 17km区間では、バイパス工事方式とする計画が示されました。 しかし、街道沿線には、商業施設が相次いで進出しており、昭和49 1974 年度から始まった道路用地の買収や店舗・事業所などの移転には予想以上の時間を要しましたが、部分開通をさせながら4車線化を進めました。 この間、開通後の騒音を予測した環境問題も発生し、新線の沿線となる郷ヶ丘では通過方式をめぐって難航しました。 しかし、常磐バイパスの工事が北進し、昭和60 1985 年8月に鹿島街道に接続するようになると、新線部分の整備機運は高まり、一部強制執行をしたものの上矢田町-平谷川瀬(新川手前)の2. 9km区間における4車線化(幅員25m)は平成元 1989 年3月に完成しました。 同時に常磐バイパスも鹿島街道旧線から新線までが延伸し、現在に至る交通網が完成しました。 問題となっていた郷ヶ丘通過に関しては、幅員を34mとし、道路と歩道の間に遮音の目的で樹木による緩衝帯が設けられました。 その後も鹿島町御代(御代坂を含む)から小名浜市街へ向け、平成4 1992 年4月に御代坂の4車線が開通したのを皮切りに、南へ向け4車線化が進められ、平成15 2003 年度には、小名浜支所前までが完了。 その後、南進ルートの小名浜支所前-小名浜本町通りは平成27 2015 年度に完成しました。 さらに小名浜背後地土地区画整理事業に伴って、福島臨海鉄道が西方へ移転。 臨港道路までの直線化も果たすことができました。 通称名が残った理由には諸説あるのでしょうが、要因の一つとして考えられるのは、道路名が何度も変化していることもあるでしょう。 それに「鹿島町」という存在が大きくなったこともあるでしょうか。 鹿島街道にしても御斎所街道にしても、交通量が多いにもかかわらず、国道に格上げされていないことも、いろんな意味を込めて、そう呼ぶ理由なのかもしれません。 さて、みなさんはどのように考えますか。 図(鹿島街道の新旧) その他の写真 3 鹿島街道と湯本街道との分岐点・走熊の七本松(昭和29年9月 おやけこういち氏所蔵) 4 曲がりくねった鹿島街道・鹿島村久保方向 昭和30年頃、鈴木庸一氏提供 5 鹿島街道と江名街道との分岐点・走熊の七本松付近を高みから見る(昭和30年代、比佐不二夫氏提供) 6 鹿島街道 鹿島町地内 の舗装工事 昭和30年代末、比佐不二夫氏提供 7 鹿島街道新設工事、平方面を見る。 旧道を行くバスが見える。 1写真の逆方向 ・現ニュータウン入口(昭和38年3月、比佐不二夫氏撮影) 8 鹿島街道の法面崩落・常磐上矢田町地内(昭和40年代、長谷川達雄氏撮影) 9 県道平磐城線の開通式・駅前大通り菱川橋付近から駅方向を見る 昭和41年5月、いわき市所蔵 10 鹿島街道の道路査察・磐城(現小名浜)支所付近から港方面を見る 昭和42年6月、いわき市撮影 11 空撮・新たに建設された船戸団地を通じる鹿島街道 昭和50年頃、いわき市撮影 12 鹿島街道の混雑ぶり・常磐上矢田町付近 昭和51年11月、いわき市撮影 13 郷ケ丘を通る新しい鹿島街道を北側から見る 昭和54年10月、いわき市撮影 14 空撮・鹿島町、鹿島街道、いわきニュータウンを北側から見る 昭和62年8月、高萩純一氏撮影 15 鹿島街道と国道6号バイパスの合同開通式・郷ケ丘 平成元年3月、いわき市撮影 16 御代坂拡幅工事 平成2年3月、いわき市撮影.

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