二宮 金次郎 は 何 を した 人。 日本の農業の救世主!?二宮 金次郎(尊徳)とはどんな人物なのか?

5分で知る二宮尊徳(二宮金次郎)あの銅像はなぜあんなに有名?│れきし上の人物.com

二宮 金次郎 は 何 を した 人

うばい合えば 足らぬ わけ合えば あまる If we take from one another, there will never be enough if we share with each other, there will be more than enough c 相田みつを Mitsuo Aida 私は、相田みつをさんの美術館を訪れ、本も何冊か持っていたのですが、この言葉を初めて知ったのは、ある公園の掲示板に貼られたポスターでした。 しばらく立ち止まって、眺めていたのを覚えています。 日本には 「おすそ分け」「お福分け」なんて言葉もあって、 「わけ合う」ことを尊い行いとしてとらえる文化があります。 「わけ合う」ことは、自分のもっているものを「譲る」ことですね。 この「譲る」ことの大切さを説いていた偉人がいます。 二宮金次郎と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。 私は昭和43年(1968年)生まれです。 私と同年代もしくは、その上の世代の方であれば、学校の校庭にあった、薪を背負い書を持つ幼き日の二宮金次郎の銅像を思い出すことでしょう。 私が通っていた小学校に、金次郎の銅像はありました。 でも、もしかしたら、それは、少数の部類に入る小学校だったのかもしれません。 なぜなら、あの銅像は、戦後の思想転換で多くが引き倒され、撤去されたからです。 戦争を体験された世代の方ですと、二宮金次郎は軍国主義のイメージと結びついているようです。 「貧しくとも懸命になって働いた少年」 そんな二宮金次郎のイメージは、戦中の少年少女を啓蒙するよきモデルになりました。 「欲しがりません、勝つまでは」。 そんな言葉が流布された時代に、貧しさに耐え、勉学に励み、成人して国(当時は徳川幕府ですが)のために働いた人物の存在は、教育の素材として、うってつけだったのでしょう。 でも、戦争が終わった時に、軍国主義を象徴する偉人の像は、少年少女の前から消し去られていったのです。 金次郎の悲劇です。 二宮金次郎は、戦争をした人でしょうか? いえいえ、まったく違います。 現在の静岡県小田原に生まれ(1787年)、立身出世を果たすと、 生涯、農政家・思想家として貧しい村の復興に尽力した人です。 金次郎が生きた時代は、江戸時代後期ですね。 没年は1856年。 それから12年の月日が流れ明治時代がやってきます。 浦賀にペリーがやってきたのは1853年のこと。 坂本龍馬や西郷隆盛が活躍する幕末の動乱が、まさに始まろうとする少し前の時代を生きた人物が二宮金次郎です。 幕府の威信が揺らぎ、「尊王」「倒幕」といった考え方が広まるなか、そうした思想には見向きもせずに、 村民のため、農民のために力を尽くしました。 痩せた土地を復活させ、人々が豊かになるように導きました。 軍国主義どころか、その反対の生き方をしたのが、二宮金次郎です。 だからこそ、温故知新よろしく、今も、その教えには耳を傾けるべきものが多いのです。 「推譲」の教えーゆずり合うことの大切さ 二宮金次郎が説いた教えに 「推譲」(すいじょう)があります。 「推譲」を辞書でひくと 「人を推薦して地位・名誉などを譲ること」とあります。 簡単にいうと 「ゆずる」ことですね。 金次郎は、今で言えば、企業の経営参謀です。 精神論ではなく、財務知識にすぐれ、お金を巧みに動かし村を復興させていきました。 その財務的な基盤となったのが、小田原藩の資金をベースに金次郎がつくった 「五常講」という融資制度です。 「五常講」とは、いまでいう投資信託のファンドのようなものといえます。 ちなみに、「五常」とは 「人倫五常」のこと。 「仁」「義」「礼」「智」「信」が、その五つです。 田を耕し人の心も耕す「心田開発」 金次郎がその名を小田原藩に知らしめた服部家(小田原藩家老)の再興は、 「五常講」があってこそです。 「武士は食わねど高楊枝」 多くのが武士が、商人から借金をしていました。 大名も同じです。 幕藩体制は、徳川幕府にたてつくことのないように、藩を疲弊させる巧妙な仕組みが働いていました。 参勤交代はその代表格で、とにかく武家はお金がかかる。 だから、借金まみれになっている武士の家が多く、多くの藩財政は破綻しかかっていたのです。 「衣食足りて、礼節を知る」 武士の誇りやモラルも、また借金によって壊れかけていたのが江戸後期です。 そこで二宮金次郎は、「五常講」でのお金のやり取りを通して、武士たちに、人としての「徳」を身につけてもらおうとしました。 また、村を復興するために、田を耕し、お金の貸し借りを五常の精神ですることで、村民たちの心をも耕していったのです。 これを金次郎は 「心田開発」と呼びました。 経験の浅い人間に対して、いろいろとものを教えるのも一種の「推譲」 であるなら、入社年数の浅い社員や部下に対して、リーダーが、職場や仕事に必要な知識や知恵をしっかりと「ゆずる」こと、「教える」ことが「推譲」ということになります。 「教える」ことは、「ゆずる」こと。 もし 「ゆずる」という言葉に抵抗があれば、相田みつをさんの言葉にあった「わけ合う」はどうでしょうか。 「わかち合う」もいいですね。 あなたが持っている知識、知恵を「みんな」と「わかち合う」。 すると、相田みつをさんがいったように、何かが余るでしょう。 その「余り」とは、部下の成長であり、部下との信頼関係です。 「余り」は循環し、リーダー自身の職場における充実感や達成感へと結びついていきます。 『日本でいちばん大切にしたい会社1』(坂本光司 あさ出版 )に登場し、一躍、全国区の知名度を獲得した会社に「伊那食品工業」があります。 その伊那食品工業の塚越寛会長が書いた『いい会社をつくりましょう』(文屋)に、こんな一文をみつけました。 幸せになりたいという気持ちは、だれもがもっていて当然ですが、「より大きく、より早く」と、幸せを 自分のほうへかき寄せようとすべきではないと思います。 そうではなく、 まず身近な人へ先に幸せを与えるようにすれば、気がついたときには何倍にもなって自分に返ってくるような気がします。 『いい会社をつくりましょう』(塚越寛 文屋) 「推譲」というと言葉がかたく、二宮金次郎という名を出せば、さらに古く感じられ、「推譲」の現代的な価値を伝えきれないかもしれません。 ただ、塚越会長など、成功しているリーダーの多くが、 「まず自らが先に与えること」や 「ゆずる」ことの大切さを口にしています。 実は、塚越会長は、二宮金次郎に大きな影響を受けています。 西郷隆盛は、二宮金次郎を尊敬していましたし、渋沢栄一、安田善治郎、豊田佐吉、松下幸之助など、実業界の偉人たちも西郷に同じです。 人に譲る心をもつ。 それがリーダーの人望をつくりあげていくのですね。 それでは、最後に、塚越会長の言葉に通じる、二宮金次郎の名言を記して、コラム65を終えます。

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自筆文書では 金治郎(きんじろう)と署名している例が多いが、一般には「金次郎」と表記されることが多い。 また、の「尊徳」は正確には「 たかのり」と読むが、「 そんとく」という読みで定着している。 経世済民を目指して を唱え、と呼ばれる農村復興政策を指導した。 生涯 [ ] (現在の栢山(かやま))に、二宮利右衛門 の長男として生まれる。 母は曽我別所村・川久保太兵衛の娘・好(よし)。 尊徳の弟には二宮三郎左衛門の養子・友吉(常五郎)と富治郎がいる。 尊徳は、まず堀之内村の中島弥三右衛門の娘・きの(キノ)を妻とするが、離縁。 次いで20歳若いが貞淑温良な飯泉村の岡田峯右衛門の娘・なみ(波子)を娶った。 後者は賢夫人と称される。 子息は、きのとの間に長男の徳太郎がいたが夭折しており、なみとの間に、嫡男の尊行(弥太郎)、長女ふみ(富田高慶室)がいる。 幼少時代 [ ] 当時の栢山村は領であった。 父利右衛門は、養父銀右衛門から13石の田畑と邸を受け継いでおり、当初は豊かだったが散財を重ねていた。 そこに、金治郎が5歳の時の3年()8月5日、を襲った暴風で、付近を流れるの坂口の堤が決壊し、金治郎の住む東栢山一帯が濁流に押し流されてしまった。 その影響で父の田畑は砂礫と化し、家も流失した。 開墾に従事して田畑は数年で復旧したが、借財を抱えて家計は貧する。 寛政9年()、父が眼病を患う。 金治郎12歳の時、酒匂川堤防工事のを父に代わって務めるが、年少ゆえ働きが足りないと憂い、自ら夜にを作って配布して献じた。 この頃、寺に入れられていた弟友吉が耐え切れずに寺から戻った。 寛政12年()、父の病気が悪化し、9月に没する。 母よしが働くために前年生まれた富治郎を人の家に預けるが、乳張りがひどくて家に戻す。 14歳の金治郎が朝は早起きして久野山に薪とり、夜は草鞋作りをして、一家4人の生計を立てた。 2年()、貧困の中で母が亡くなった。 まだ幼い2人の弟は母の実家川久保家に預け、金治郎は祖父(伯父) 萬兵衛の家に身を寄せることとなった。 しかしこの年にまた酒匂川が氾濫し、金治郎の土地は水害に襲われてすべて流出してしまった。 金治郎は本家・祖父の家で農業に励み、身を粉にして働いたが、ケチな萬兵衛は金治郎が夜に読書をするのを「燈油の無駄使い」として嫌い、しばしば口汚く罵られた。 そこで金治郎は策を講じ、堤防にを植え、それで菜種油を取って燈油とした。 また、田植えの際に余って捨てられた苗を用水堀に植えて、米一俵の収穫を得た。 元年()、萬兵衛の家を離れ、同村の親族・岡部伊助方に寄宿。 この年に余耕の五俵を得て、翌年は親戚での二宮七左衛門方に寄宿。 さらにここで余耕の20俵を得て、文化3年()に家に戻り、20歳で生家の再興に着手する。 家を修復し、質入田地の一部を買い戻し、田畑をに出すなどして収入の増加を図った。 しかし他方で、弟の富治郎はこの頃に亡くなった。 生家の再興に成功すると、金治郎は地主・農園経営を行いながら自身は小田原に出て、としても働いた。 この頃までに、身長が6尺(約180センチ強)を超えていたという伝承もある。 また体重は94kg あったと言われている。 小田原藩士の岩瀬佐兵衛、槙島総右衛門らに仕えた。 青年時代 [ ] 文化5年()、母の実家川久保家が貧窮するとこれを資金援助し、翌年には二宮総本家伊右衛門跡の再興を宣言し、基金を立ち上げた。 その頃、小田原藩で1,200石取のをしている服部十郎兵衛が、親族の助言により、金治郎に服部家の家政の建て直しを依頼した。 金治郎は五年計画の節約でこれを救うことを約束し、文化11年()に服部家の財務を整理して千両の負債を償却し、余剰金300両を贈ったが、自らは一銭の報酬も受け取らなかった。 この評判によって小田原藩内で名前が知られるようになった。 文化13年()、前年に家に戻った友吉(常五郎)を萬兵衛の長男・三郎左衛門の養子とし、自らも最初の妻を娶った。 元年()、藩主が孝子節婦奇特者の表彰を行った時に、その中に金治郎の名もあった。 文政2年()、生まれたばかりの長男が夭折。 家風に合わぬという口実で妻きのが離別を申し出たので、離縁した。 翌年、34歳の金治郎は16歳のなみと再婚した。 同年、忠真公が民間の建議を求めた際に、金治郎は貢米領収桝の改正を建言。 これが採用されて斗量を改正した。 また小田原藩士のための低利助貸法及び 五常講を起こした。 文政4年()、二度目の伊勢詣でから戻った金治郎は、小田原藩主の分家・宇津家のであった桜町 が荒廃しているということで、その再興救済を藩主より命じられた。 文政6年()、金次郎は名主役柄・高5石二人扶持の待遇、移動料米50俵・仕度料米200俵50金を給されて、桜町に移住して再建に着手した。 文政9年()には宇津家家臣・横山周平が同役勤番となって江戸に行ったため、金次郎が組頭格に昇進して桜町主席となった。 再建は村民の抵抗にあって難航していたが、2年()には正米426俵を納める成果を上げるに至り、同5年には1,330俵を返納し、同7年には封地4,000石租900石の所を実収3,000石にまで増やしたので、分度(支出の限度)を2,000石に定めて再建を成し遂げた。 その方法はとして他の範となる。 但しこれらの復興政策は必ずしも上手く行ったというわけではなく、村人らに反感を持たれたときは突然行方不明になった。 間もなく成田山で断食修業していることが判明し、修業を終えて戻ると村人らの反感もなくなっていたという。 晩年 [ ] 天保3年()には桜町より三里先の青木村の旗本川副勝三郎より依頼を受けて伝授。 天保4年()にはが関東を襲ったため、藩命で下野烏山の大久保領の領民を救済。 天保5年()には谷田部細川家の家政を中村玄順を介して改善。 天保7年()、重病の忠真公により小田原に呼ばれ、功績を賞されると共に、飢饉にある小田原の救済を命じられる。 駿河・相模・伊豆の三州の救済は緊急を要するということで金千両を与えられる。 金次郎は小田原家臣と協議し、蔵米を放出して村々を救急。 儒式の尊徳墓(日光市今市の報徳二宮神社) 天保9年()、石川氏のの所領1万3,000石が三分の一に減収していたのを復興し、3万金の借金を償却して、分度外の余剰500俵を出す。 天保11年()、伊豆の代官江川氏の招きを受けて、田方郡多田弥次右衛門家を再興。 天保13年()、幕府に召し抱えられ、普請役格となって印旛沼開拓・利根川利水について二件の提案を行ったが、結局、それは採用されなかった。 翌年、幕府直轄領()下総大生郷村の仕法を命じられ、元年()には日光山領の仕法を命じられる。 翌年、下野真岡の代官山内氏の属吏となって、真岡に移住。 日光神領を回って日光奉行の配下で仕法を施していたが、3度目の病を発し、3年()下野国今市村(現在の栃木県)の報徳役所にて没した。 享年70。 は誠明院巧誉報徳中正居士。 24年()11月16日にが追贈されている。 逸話 [ ] 尊徳に関しては多くの逸話が残っている。 事実かどうか確認できないものも多いが、伝記などに多く記述される代表的な逸話には次のようなものがある。 これらの逸話の多くは、弟子のが著した尊徳の伝記『』を由来とする。 ただし、尊徳自身は幼少期の頃について全く語らなかったため、高慶は村人から聞いた話を記したに過ぎず、これらの逸話については高慶自身も信憑性は保証できないとしている。 小田原時代 [ ]• 一斗枡を改良し、藩内で統一規格化させた。 役人が不正な枡を使って量をごまかし、差分を横領していたのをこれで防いだ。 倹約を奨励し、かまど番から余った薪を金を払って買い戻した。 桜町時代 [ ]• を食べたところ、まだ夏の前なのに秋のナスの味がしたことから、その年はになることを予測。 村人たちに指示してに強いを大量に植えさせた。 尊徳が予測した通りその年は冷夏となり、が発生したが、桜町ではヒエの蓄えが十分にあったおかげで餓死者が出なかったばかりか、余分のヒエを周辺の村々にも分け与えることができたという。 して間もない田畑は、既存の田畑と比べて負担が軽いことに注目し、新しい田畑の開墾を積極的に奨励した。 村人たちの開墾作業を見回っていた時、一人の男が他の村人の何倍も激しい勢いで仕事をしている様子を見て、「そのような勢いで一日中働き続けられるはずがない。 お前は他人が見ている時だけ一生懸命に働く振りをして、陰では怠けているに違いない」と怒鳴り、村人たちの前で男の不正を厳しく叱ったという。 その一方で、年老いて無力ながらも陰日向なく真面目に働き、他の村人たちがやろうとしない木の切り株を掘り起こす面倒な作業を毎日地道に続けてきたの老人に対しては、開墾に邪魔な木の切り株を彼が全部取り除いてくれたおかげで他の村人たちの作業が容易になり開墾がはかどったという理由から、通常の賃金のほかに慰労金として15もの大金を与えたという。 成田山に引きこもっていた際、そこで出会った老婆に教えられ、と出会い、「農民や役人が自分に従わないと仕事をはじめないと思っておられるようですが、いちばん大切なのは復興なのでは?」との小谷の言葉で、まず役人と村人を改心させようとした自分の完全主義に無理があると悟り、説得より復興作業をまず開始しようと決心して、桜町に帰ったという。 評価 [ ]• 「二宮尊徳には一度会ったが、至って正直な人だったよ。 全体あんな時勢には、あんな人物が沢山出来るものだ。 時勢が人を作る例はおれはたしかにみたよ」 子孫 [ ]• 通称、弥太郎。 4年()生まれ。 尊徳の長男・徳太郎が生後まもなく没したため、となる。 尊徳没後も御普請役の命を受け、遺志を受け継ぎ日光山領89村の仕法を推進した。 嘉永5年(1852年)4月、士・三宅頼母の娘・鉸子(こうこ)と下野国東郷陣屋で結婚する。 慶応4年()6月、の戦火が今市に及び母、妻子と領内に移った。 これにより日光山領の仕法は打ち切られた。 明治4年(1871年)、尊徳夫人(歌子)と尊行没する。 - 尊行の。 通称は金之丞、金一郎。 2年()11月16日生まれ。 明治4年(1871年)、父の後を継ぎ家禄700石を給される。 明治10年(1877年)、を民間で実践する為、富田高慶を社長にが設立され、副社長にが就任するが間もなく尊親が就任した。 富田高慶が没すると社長に就任し、新天地にて実践することを求め、明治29年(1896年)に社員と探検隊を組織し、開墾に適した土地を探して周り、を発見した。 明治30年()、第1期移住民75名とともに(現在の)に移住しとして豊頃村牛首別(ウシシュベツ)原野を10年で840haも開墾し、宅地や防風林等も含めては1,345haにも及ぶ大農場となった。 またこの間、母の鉸子は尊親の子・(とく)を札幌に居を構えて養育した。 明治40年(1907年)、開拓が一段落した為、再び相馬に来住し、妻は報徳婦人会会長となり、尊親は中村城三の丸跡にある相馬家事務所に執事として勤め、「報恩全集」の編纂をした。 その後、銀行の取締役、大正6年福島県立薫陶園園長、大正8年(1919年)には2代目校長に就任した。 - 尊親の。 後に富士山麓に「」を発足させた。 - 尊行の。 通称、延之助。 安政5年(1858年)生まれ。 の娘と結婚し高慶の養子となる。 娘は、相馬家に嫁いでいる。 - 尊徳の。 門人 [ ]• - 士・齋藤(富田)嘉隆の次男。 相馬中村藩士。 通称は久助。 弘道任斎と号する。 尊徳の娘婿。 文化11年(1814年)生まれ。 藩世継のの近侍となるが藩復興の志のもと江戸に出る。 天保10年(1839年)6月1日、入門。 4大門人の1人で、報徳仕法を支えた。 尊徳の片腕として活躍し、嘉永5年(1852年)に尊徳の娘・文子と結婚するが、翌年出産で帰った実家にて母子ともに亡くなった。 日光仕法、相馬仕法に従事した。 相馬仕法は尊徳の代理として、弘化2年(1845年)から廃藩置県まで領内226村のうち101村を対象に行い成果を得た。 維新時、尊行一家とともに相馬に移住した。 明治2年(1869年)、相馬中村藩家老上席および政治総裁となった。 廃藩置県後は、明治10年(1877年)に興復社を設立し社長となった。 また、尊徳没後「報徳記」「報徳論」を著した。 明治23年(1890年)、77歳で没する。 二宮尊行の次男高英を婿養子とした。 - 旧幕府下での開拓を指導。 札幌開拓の始祖と呼ばれた。 - 4大門人の1人。 - 4大門人の1人。 富田高慶の甥。 久米之助。 弘化2年(1845年)、入門。 相馬仕法の後半を高慶に代わって指導した。 晩年、大原村(南相馬市原町)に隠棲し大原山人と号した。 明治27年(1894年)6月、76歳で中村にて没した。 - 弘化2年(1845年)に入門。 - の祖父。 崇敬・記念 [ ] 日本銀行券A1円券 有効券 各地の小学校などに多く建てられた、薪を背負いながら本を読んで歩く姿(「負薪読書図」と呼ばれる)に関する記述は、明治14年()発行の『報徳記』が初出である。 そこには「大学の書を懐にして、途中歩みなから是を誦し、少も怠らず。 」とある。 この「書を懐にして」を、「懐中」か「胸の前で持って」と解釈するかは判断に迷うところだが、金治郎像では後者で解釈されている。 ただし先述のように『報徳記』の尊徳幼少期の記述は信憑性が薄く、このような姿で実際に歩いていたという事実があったかは疑問が残る。 『報徳記』を基にした著の『二宮尊徳翁』(1891年10月)の挿絵(画)で、はじめて「負薪読書図」の挿絵が使われた。 ただし、これ以前から既にこの図様に近い少年像は存在していた。 金治郎の肖像画のルーツは中国の「図」にあり、これがに伝統的な画題として代々伝わり、その末裔の永興もこれを参考にしたと想定される。 確認されている最初のこの姿の像は、明治43年()にが東京彫工会に出品したものである。 明治37年(1904年)以降、にの象徴として尊徳が取り上げられるようになった。 小学唱歌にも『』という曲がある。 しかし、修身国定教科書には金治郎の逸話は取り上げられたものの、「負薪読書図」は一度も掲載されていない。 「負薪読書図」が広まったのはや、子供向けの伝記類による。 これらの学校教育や、地方自治における国家の指導に「金治郎」が利用された経緯には、尊徳の実践した自助的な農政をモデルとして、自主的に国家に献身・奉公する国民の育成を目的とした統合政策の展開があった。 この「金治郎」の政治利用は、を中心とする人脈によって行われていた。 特に・・らによる指導が大きかった。 小学校の校庭などに見られる「金治郎像」は、彼らの政策によって展開された社会環境を前提として、国家の政策論理に同調することで営業活動を行った石材業者や石工らによって普及したとされる。 小学校に建てられた「金治郎像」で最古のものは、13年()、愛知県前芝村立前芝高等尋常小学校(現)に建てられたものである。 その後、初期に地元民や卒業生の寄付によって各地の小学校に像が多く建てられた。 立像の大きさは1mとされ、子供たちに1mの長さを実感させるのに一役買ったともいわれる。 実際のところは、立像はきっかり1mではないことが多い。 これは、昭和15年()頃に量産された特定の像に関する逸話が一人歩きしたものと考えられる。 この像が戦後、の指令により廃棄されたといわれることがあるが、二宮尊徳が占領下の昭和21年()に(1円券)の肖像画に採用されていることからも、像の減少とGHQは特に関係は無い。 戦前の像は製のものが多いが、ほとんどが中の金属供出によって無くなったため、混同されたものと考えられる。 金属供出に際して、教育的配慮として、教師や児童の立会いの下で像にたすきをかけて壮行式を挙行し、戦地に送り出したり、撤収後の台座に「二宮尊徳先生銅像大東亜戦争ノタメ応召」の札が立てられたこともある。 は金属類回収令で供出される前に、銅像の本に書かれている内容を調べたことがある。 各学校によって刻まれた文字が異なり、「忠孝」の二文字、または『』や『』の一節が刻まれるもの、あるいは白紙のものまであったと記している。 石像はその後の時代も残った。 また、残った台座の上に、新たに銅像やコンクリート像などがつくられることもあった。 像のように薪を背負ったまま本を読んで歩いたという事実が確認できないことと、児童が像の真似をして本を読みながら道路を歩くと交通安全上問題があることから、1970年代以降、徐々に撤去され、像の数は減少傾向にあるほか、「現在の児童の教育方針に合わない」などの理由で、破損しても補修に難色を示す教育委員会もある。 歴史博物館調べによると、市内の小学校の55. また、15年()にが改築され橋上化された際、デッキに尊徳の像が新しく立てられた。 2010年代に入っての危険性が社会問題になったが、この問題を受けて「いまいち一円会」が2016年に日光市立南原小学校に寄贈した石像は立像ではなく座像となっている。 なお、では、「二宮金治郎像」が夜中の校庭を駆け回るという話が典型的に語られている。 二宮尊徳生家 記念館 [ ] 尊徳記念館が神奈川県小田原市栢山にある。 栃木県真岡市にも二宮尊徳資料館がある。 顕彰碑 [ ] 荒廃した村を再建した尊徳の偉業を讃えて、茨城県桜川市真壁町(旧青木村)に顕彰碑が建てられている。 唱歌・歌謡曲 [ ]• 『噫々二宮金次郎』() 関連作品 [ ] 漫画• 『博愛の人』(ジョージ秋山、小学館ビッグゴールド連載、1993~1996年)• (、):テレビアニメ版の二宮尊徳(金次郎)を演じた声優は 小説• 『小説 二宮金次郎』、• 『尊徳雲がくれ』 『谷中・首ふり坂』収録 、 演じた人物 [ ]• - 『』(1957年の映画)• - 『』(日本放送協会、1973〜1974年)• - 『』(1998年の映画)• - 『』(少年時代)• - 『』第四話「二宮尊徳 秘話」(BSジャパン、2017年11月14日)• - 『二宮金次郎』(2019年の映画) 史料 [ ] 近代デジタルライブラリー• 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 銀右衛門は次男坊ながら若干の土地から身を起こして中農までになった人物。 萬兵衛は金治郎の祖父であるが、本家と分家との違いがあり、本家の立場からは伯父である。 油代がもったいないと伯父に指摘される家にて書物を読んでいるが、その書物をどこから手に入れたのか疑問が残る。 現在の、なお合併前のの町名の由来は尊徳である。 実際には冷害の数年前からヒエの作付を準備させていたことが分かっている。 尊徳は飢饉に備えて一人当たり五俵(約300kg)ずつの割合でヒエを蓄えるよう村人たちに指示していたという。 当時の日本では、田畑の開墾を積極的に奨励するため、新しく開墾した田畑については一定期間(一般には3 - 5年程度)にわたってを免除もしくは大幅に軽減する制度があった。 この制度は俗に「鍬下年季」(くわしたねんき)と呼ばれた。 の『』に校長先生が訓示で「いよいよ二宮金次郎さんの銅像も出征することになりました。 銅像は敵をうつための大砲の弾になるのです。 今日皆さんは、下校する時金次郎さんにお別れしてください」という場面がある。 山中らの指摘では時代が少し早いという。 出典 [ ]• 大藤修『人物叢書 二宮尊徳』吉川弘文館、2015年5月、2p。 大藤修『人物叢書 二宮尊徳』吉川弘文館、2015年5月、3p。 著『二宮尊徳 -財の生命は徳を生かすにあり-』、22ページ。 、pp. 31-32。 日本博学倶楽部著[図説]歴史の「決定的瞬間」(愛蔵版)電子書籍版 株式会社PHP研究所 2013年 第3章column• 「海舟全集 第十巻」• 岩井茂樹 「二宮金次郎「負薪読書図」源流考」『日本研究』第36集、 、、2007年9月28日、pp. 7-46。 、pp. 200-201。 『ノスタルジック・アイドル 二宮金次郎』 新宿書房、1989年、pp. 32-33。 、pp. 142-161。 、「戦時下、学校から次々消えた「二宮金治郎像」」(銅像はつらいよ十選 4)、、2013年12月18日• 『歴史に「何を」学ぶのか』 2017年 pp. 79 - 80. 、2016年3月3日閲覧。 参考文献 [ ]• 『報徳記』 1883年(脱稿は3年(1856年))• 『二宮尊徳』(『岩波新書』)、、1959年1月(のち、特装版『岩波新書の江戸時代』に収録、1993年7月刊。 『二宮尊徳』(『朝日評伝選』2)、、1975年9月(のち、『朝日選書』に収録、1989年7月刊。 『二宮金次郎の一生』、、2005年5月刊。 『二宮尊徳 -財の生命は徳を生かすにあり-』〈〉、2009年12月刊。 『日本人の肖像 二宮金次郎』〈角川叢書45〉、2010年2月。 『二宮尊徳の日光神領廻村の記録を読む』• 『二宮尊徳の相馬仕法』、1970年7月刊。 足柄下郡教育会編 足柄下郡教育会、1929年。 国立国会図書館デジタルコレクション。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 ウィキクォートに に関する引用句集があります。 如意山 — 小田原市868。 菩提寺• :A号券の肖像に採用された。 :二宮の唱えた『五常講』を淵源とする。 外部リンク [ ]• (神奈川県小田原市)• (栃木県真岡市)• - (2011年11月23日アーカイブ分)•

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二宮金次郎とは

二宮 金次郎 は 何 を した 人

二宮金次郎とは いつ頃の人? 天明7年 (1787年) 7月23日生まれ (江戸末期 徳川11代 家斉が将軍になる。 天明3年から天明の飢饉始まる) 安政3年 (1856年 11月20日 69歳で没する (徳川13代将軍家定に篤姫-後の天璋院が輿入れ。 明治維新の12年 前) どこで生まれたの? 相模国足柄上郡栢山村( 現 神奈川県小田原市 栢山 かやま ) 小田原市栢山の金次郎生家 何をやった人? 小学校などに有る薪を背負って本を読み歩く金次郎像は16歳ごろの姿です。 祖父の銀右衛門が作った財産(2町三反ほどの田畑)を、父利右衛門の放蕩生活や 大雨で酒匂川の堤防の決壊などもあり、その財産の多くを失ってしまいました。 その果てとしての貧困の中で父も亡くなり、16歳の金次郎が母を助け一家の 柱として薪を刈り小田原の街まで売りに行った姿を現していると言われています その後母親も亡くなり、伯父萬兵衛の家に引き取られ成人します。 伯父から独立して、二宮家の再興のために努力し失った田畑を買い戻しました。 独学と天性の素質で小田原藩の家老服部家の財政再建を成功させます。 それを聞いた小田原藩主大久保忠真公より荒廃した桜町領 (現栃木県芳賀郡二宮町)の農村の立て直しを依頼されみごとに復興させ その後各地の農村・破産状態の各藩の立て直しを亡くなる直前まで続けました 後世に名を残す二宮金次郎(尊徳)は、この農村復興や藩財政の立て直し等 各地で大活躍をしたことで、一介の百姓では無く偉大な実業家・農政家とも 言われるようになりました。 その方法をまとめたものが「仕法」といいます。 その思想は報徳社として受け継がれ現在も農業のみならず経営の規範として 各方面で見直されております。 勤労・分度・推譲 <二宮金次郎が農村復興・藩財政の立て直しを行う上で基本とした考え方> 「勤労」:積小為大 小さいことを積み重ねて大きな結果を為す)という考えを元に 自分で定めた目標に向かって行くためには小さな事から怠らず それに向けて、つつましくつとめなければいけないということ。 「分度 ぶんど 」: 収入に見合った限度を定めそれに応じた支出の限度を計画的に 定めていくこと。 ただ節約・倹約を唱えても実効はあがらないので、どう節約・ 倹約をするか過去にさかのぼり具体的な実行目標を数字で示してその後の 努力目標とすることが大切だという考え方で、報徳思想の中心となる基本的な 教えで重要だと言われる。 「推譲」 :分度により努力して残った剰余分を困窮している人々などに見返りを求める 事なく分け与えること。 あくまでも分度により得られたものに限られる。 勤倹力行・積小為大・至誠 <各地の金次郎像の台座などに書かれた金次郎の教えの言葉> 「勤倹力行」 :仕事に励み、つつましやかに倹約して精一杯努力し物事を行う事。 「積小為大」 :小さなことからコツコツと励み続けることがやがて大きく実を結ぶ 「至誠」 :この上なく誠実なこと。 まごころをもってあたれば何事も報われる。 以上は二宮金次郎について書かれた本や資料による金次郎の概略です。 私も含めて金次郎さんと言えば、小学校の校門の横などにあった石像のイメージです。 また小学校教育関連ではこんな歌がありました。 尋常小学唱歌「二宮金次郎」 明治44年(1911年 1 柴(しば)刈り縄ない 草鞋(わらじ)をつくり 親の手を助(す)け 弟(おとと)を世話し 兄弟仲よく 孝行つくす 手本は二宮金次郎 2 骨身を惜(おし)まず 仕事をはげみ 夜なべ済まして 手習(てならい)読書 せわしい中にも 撓(たゆ)まず学ぶ 手本は二宮金次郎 3 家業大事に 費(ついえ)をはぶき 少しの物をも 粗末にせずに 遂には身を立て 人をもすくう 手本は二宮金次郎 二宮金次郎を当時の政府が軍国主義の象徴として「利用」しようとしていたのでしょうか。 修身教育は明治5年の学制公布から開始され、明治13年教育令改正により尊王愛国の養成 のため筆頭科目となります。 さらに明治23年の「教育勅語」発布により教育の中核となります。 二宮金次郎が修身の教科書に出てきたのは 明治37年国定教科書「尋常小学修身書」で 「孝行」・「勤勉」・「学問」・「自営」という4つの徳目に登場します。 明治37年〜大正・昭和16年までの尋常小学校と、16年以後国民学校の昭和20年まで 一貫して「修身」という教科で二宮金次郎は題材として利用されました。 教科書に載せるということは、国民の理想像として具体的な事例を挙げて子供たちに教える という事であり、それが一部では時の政府にとって都合のいい子供たちを作り上げるためとも 言われているようです。 しかし 二宮金次郎に関する部分は、当時の社会では当たり前だったと思われる 「勤勉」「孝行」・・といった人の道を言っているのであって、修身に出てくる他の題材 たとえば天皇や国家に対する「忠君」「愛国」「報国」といったものとは異なるのでは、、。 戦後、駐留米軍GHQの命令で小学校にあった奉安殿(天皇の御真影・教育勅語設置)や 乃木大将像、楠木正成像などが撤去されたが、二宮金次郎像は残されたのを見ても 決して軍国主義の思想植えつけに利用されたわけではないと思います。 その裏付けとして、戦後すぐに発行された新一円札に尊徳像が採用されました。 昭和21年3月19日に発行された日本銀行券 国定修身教科書・尋常小学修身書 巻三 四 かうかう(孝行) 五 しごとにはげめ 六 がくもん 大垣市上石津郷土資料館 資料より 金次郎の実像 二宮金次郎の一生を記した伝記や逸話の大半は、金次郎の門弟であり金次郎の 娘文子の夫でもある 富田高慶の「報徳記」によるものが多く、その内容が以降 教科書や児童書になり正確ではない情報が伝わってきているようです。 金次郎の逸話として最も有名で重要な話は、親を助けるために山へ柴を刈りに行き 小田原の町へそれを売りに行き、その行き帰りに「大学」の書を読みながら歩いた、、 というまさに今に残る金次郎像の元になった話です。 二宮本家に生まれ金次郎の研究をされた 二宮康裕氏の「二宮金次郎の人生と思想」 によると、金次郎本人はそのことに関して言ってないし、栢山村での聞き取り調査 でもその事実は無く、そもそも金次郎が柴を刈ったという「入合地」には入合権という ものがあり、勝手に柴や薪を刈ってそれを売るなどということは絶対出来なかった。 そこで、小田原城下に売りに行かなかったとして、自分の家のためなら許されたと 仮定すればこの話はなりたつのではありますが、、。 富田高慶「報徳記」 「採薪の往返にも大学の書を懐にして途中歩みながら之を誦し少しも怠らず」 (富田高慶「報徳記」全集36巻65頁) 明治24年に「報徳記」を元に 幸田露伴が書いた 「二宮尊徳翁」では 「大学の書を懐中に常離さず、薪伐る山路の往返歩みながら読み玉ひし」 両方とも書を懐にしていると言っているのだが、「二宮尊徳翁」の挿絵には あきらかに本を読みながら薪を背負って歩いてる姿があったことが その後金次郎少年の姿が具現化してしまったということのようです。 二宮康裕氏の「二宮金次郎の人生と思想」によれば、金次郎が25歳ごろから 私有林の伐採権を買い取り、実際に薪の販売をしていたということです。 本家再興や自分の家の復興に商業活動をしていたことがわかります。 また、二宮康裕氏によれば頻繁に起こる栢山を流れる酒匂川の氾濫を防ぐ 目的で金次郎が堤防に松の苗を植えて洪水の予防をしたという話もあるが、 実話としての記録も無いということです。 小田原藩重臣服部家の財政立て直しを成功し小田原藩主に依頼され各地の 領地立て直しを成功させていくわけですが、元手となる資金はまさに 「積小偉大」を実践して自分で増やした田畑を小作にやらせ米相場にも 出資して徐々に蓄えていったということです。 その資金を使って「仕法」の元手とし「勤労」「分度」「推譲」を実践したのです。 金次郎の名前について 金治郎 : 父親 利右衛門に付けられた名前 菩提寺の墓標はこの字 金次郎 : 文政3年34歳の時小田原藩公用書類に記載され、それ以降使用 林 蔵 : 小田原藩 家老 服部家に奉公した時の若党名 尊 徳 : (たかのり)通称そんとく 幕府登用後天保14年57歳ごろから武士の名 山 雪 : 俳号 誠明院功誉報徳中正居士 : 法号.

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