アメリカ スペイン 戦争。 アメリカ合衆国が関与した戦争一覧

建前と本音の米西戦争 : 塩はうまくてまずいです

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1936年のスペイン戦争開戦に至るまでの世界情勢とスペインの動きについてはおよび、の項を参照して下さい。 軍部の反乱の開始 1936年1月のスペイン総選挙で共和派・社会主義者・共産党などからなる派が勝利し、2月に首都に人民戦線内閣が成立すると、ただちに軍部はクーデタの準備に入り、各地の将軍間で連絡を取り、一斉蜂起を計画した。 7月17日、モロッコのメリリャで反乱軍が蜂起し、政府軍大佐を銃殺、労働組合・人民戦線の指導者を逮捕し、本土のむけて「異常なし」と打電した。 これがクーデタ開始の合図だった。 18日早朝、カナリア島ラス=パルマスにいた将軍はクーデター宣言を放送した。 これはスペインでそれまでも政治危機の時によく見られた軍部の蜂起宣言()であった。 それに呼応して19日、スペイン全土で反乱軍が蜂起した。 ファシストのファランヘ党などが同時に蜂起したがデモなどの大衆的な反政府運動は起こらなかった。 軍の反乱の知らせを聞いた労働者は、「労働者に武器を!」と叫び政府に迫ったが首相キローガは収拾の目途が立たず辞任、次の首相もすぐ辞任した後に首相となったホセ=ヒラールが労働者に武器を与えることを決意、義勇軍が組織された。 首都マドリードを初め各地に民兵委員会が生まれ、も含む政府支持の民兵が組織された。 内戦から戦争へ 2,3日で全土を制圧し共和国政府を倒して軍事政権を樹立することを想定していたフランコ軍は、武装した労働者の頑強な抵抗を受け、マドリード、バルセローナ、バレンシア、マラガ、ビルバオなどの主要都市ではいずれも政府側が反乱を鎮圧した。 反乱には軍隊の将校の大半と兵士の75%が荷担したが、その占領地はモロッコと、本土ではカディス、セビリア、北部地方など国土の半分近くにとどまった。 以後、スペインは共和派ブルジョワジーと労働者の政府軍民兵と、軍=ファシストにモロッコのムーア人部隊を加えた反乱軍が一進一退を繰り返す内戦状態が続くが、それは当時緊迫した世界情勢の中で、ファシズム国家と反ファシズム国家の対立と結びついて国際化し、外国軍、外国の義勇兵も加わって、「戦争」の形態へと深化していく。 ドイツとイタリアの参戦 フランコ軍は8月に入るとモロッコのムーア人部隊を本土に上陸させて攻勢に移り、さらにフランコはナチスドイツのとファシストイタリアのに心情的に近く、その両国に支援を要請、それに応えて積極的な軍事援助が行われた。 ヒトラー、ムッソリーニは人民戦線をソ連=コミンテルンによる謀略と宣伝して、反共産主義の理念を戦争参加の理由としたが、実際にはスペインの鉄鉱石などの地下資源を手に入れること、またフランスとの全面戦争に備えて、特にドイツでは再軍備したばかりの軍隊が実戦訓練をする格好のチャンスだと考えたことが理由としてあげられる。 特に空軍を指揮するはそのような意図が強かった。 ヒトラーとムッソリーニは実はオーストリアに対する利害が対立しており、関係は良くなかった。 しかしスペイン戦争への支援は、両国を近づける契機となった。 イタリアは当時を開始してイギリス・フランスから非難されていたこともあり、ドイツと協力することを得策と考えるようになっていた。 そこでイタリアはオーストリアをドイツが併合することを暗に承認して、提携することとなった。 それが1936年10月のの成立である。 スペイン人民戦線派民兵は、スペインのファシストと戦っただけでなく、ドイツ・イタリアのファシスト国家とも戦ったのである。 なお、隣国は、当時による独裁政治体制がすでに成立しており、サラザール政権は人民戦線を敵視していたので、反乱軍に協力し、反乱軍はポルトガルを経由して内陸に攻め込むことが可能になり、またポルトガルは反乱軍の兵站基地となった。 また人民戦線側の兵士がポルトガルに逃れると逮捕され、フランコ軍に送り返された。 Episode 詩人ガルシア=ロルカの死 ガルシア=ロルカは、詩集『ジプシー歌集』や劇『血の婚礼』などで知られた詩人であった。 政治活動はしていなかったが、共和派を支持することを公言していた。 彼はフランコ派の占領していたグラナダに出かけていって、村の祭りに参加しようとした。 友人はフランコ派に属していたので、来たら捕まると言って警告したが、ロルカは出かけた。 訪ねた友人はたまたま不在で、ロルカはフランコ派の「黒組」に捕らえられ、他の共和派と一緒に村の外れで自分の墓穴を掘らされ、銃殺された。 その死は世界中に知られ、フランコ派の残虐行為が広く非難されることになった。 ロルカの墓には三本のオリーブの木が植えられた。 ロルカの詩はジプシー(ロマ)の土俗とシュールな新しさが溶け合い、その最後の予兆となるような死のイメージが濃厚である。 『ロルカ詩集』(みすず書房)にはその墓の木の写真が載っているが、今はどうなっているのだろう。 長谷川四郎訳『ロルカ詩集』1967 みすず書房 p. 139> フランスの対応 反乱開始直後の7月20日、スペイン共和国政府はフランスの人民戦線政権である首相に電報を送り、支援を要請した。 6月5日に首相となったばかりのブルムは、反ファシズムの共通目標を持つスペイン人民戦線政府からの要請にただちに応えることとした。 同時にイギリスにも働きかけたが、イギリスの保守党ボールドウィン首相は人民戦線に好意を持っておらず、同調を拒否した。 またフランス内にも大統領のルブラン他の強い反対があり、また右翼系新聞もドイツ・イタリアを怒らせるな、と支援反対の論陣を張った。 共産党は支援を主張したが、社会党右派どは外交課題でソ連と同調することになるので反対した。 こうして閣内はスペイン支援問題で分裂し、ブルム首相は結局正式な支援は断念した。 なお、フランスがスペイン政府を支援しなかった理由として問題もあげられる。 フランコの反乱が失敗した場合、モロッコの民族運動が再び高まり、かつてののような独立戦争が、さらにアルジェリアに波及することを恐れたのである。 不干渉政策 1936年8月8日、フランス政府は、スペイン内戦に一切の干渉を行わず、一切の武器・軍需品をスペインに輸出しないと決定した。 フランスとイギリスは以後一貫して不干渉政策をとる。 フランスは不干渉政策をドイツ・イタリア・ポルトガルにも守らせることによってスペインを助けることになると判断し、国際会議を呼びかけた。 この三国とも表だっては内戦不介入の顔をしていたのでフランスの提案を受け入れ、ソ連も含めて9月9日に27カ国がロンドンに集まり、不干渉委員会の国際会議が開催された。 各国は原則的な不干渉に同意したが、ドイツ・イタリアは平然とそれを無視して反乱軍を支援し続けた。 その論理は、不干渉は正式政府間だけの取り決めであり、政府ではない個人向けに輸出するのは問題ない、というようなものであった。 逆にスペイン政府は正統な政権として外国軍の支援を受ける権利があったが、それは阻まれた。 唯一、ソ連はスペイン政府に対する軍事支援を表明した。 スペイン政府はこのようなドイツ・イタリアの反乱軍への武器貸与を国際連盟に提訴した。 しかし国際連盟は、この問題は不干渉委員会にまかせるとして取り上げなかった。 このようにイギリス・フランスの不干渉委員会の存在は、国際連盟が任務を放棄する口実ともされた。 国際連盟が取り上げたとしてもドイツ・イタリアはすでに脱退していたので効力は期待できなかった。 ソ連の支援 1936年秋になると、反乱軍の占領地域での労働者や市民に対する残虐行為が世界中に知られるようになり、イギリス・フランスの不干渉政策も人道上問題であるという世論が強まった。 戦局は9月末に反乱軍がマドリードに迫り、全土の3分の2を制圧した。 このころ、イギリス・フランスの不干渉政策を批判して、ソ連は積極的な共和国支援を打ち出し、ドイツ・イタリアの不干渉政策違反に対抗して武器支援を開始した。 その正確な戦力は不明だが、航空機や陸上部隊が相当数地中海経由で海上から共和国政府側に提供(実際には売却)した。 なお、アメリカ合衆国も従来の外交政策であるヨーロッパの紛争に対する不介入の姿勢を守り、中立という建前を取っていたが、実際にはフランコ軍にテキサスの石油を提供していた。 引用 フランコを助けたものはナチス・ドイツとファシスト・イタリアだけではなかった。 スペイン共和国を破壊するために、アメリカ合衆国、イギリス、フランスは、ドイツ=イタリアと「協力」したといってもよい。 やがて第二次世界大戦において敵味方となる西欧諸国とファシズム諸国は、フランコを助ける上では、公然とまたは隠然と、共同していたのであった。 アメリカやイギリスなどの国々は公然とフランコを支持したわけではない。 また、これらの国の人で直接にフランコ側に立って戦闘に参加したものはあまりいなかったようである。 しかし、アメリカ合衆国は物資によってフランコを助け、イギリス・フランスは「不干渉政策」によってスペイン共和国を敗北に落とし入れたのである。 <斎藤孝『スペイン戦争』1961 中公新書 p. 115> フランコの台頭 反乱軍の中心的指導者は当初、モラ将軍であり、人気があったのはラジオ演説が大好きなデ=リャーノ(ラジオ将軍とあだ名された)であったが、ドイツ・イタリアの援助を得るのにパイプとなったフランコ将軍が次第に力を振るうようになり、9月末に主導権を獲得、10月1日に一種のクーデタで勝手に「国家元首」を名乗り、ヒトラーの総統(フューラー)を真似てカウディーリョ(統領)と呼ぶことを決めた。 その与党として「統一ファランヘ党」を唯一の政党として認め、他を禁止した。 人民戦線の内部対立 一方共和国政府の大統領アサーニャは人民戦線の強化を図り、1936年9月、社会党左派のラルゴ=カバリェロに組閣を命じ、この内閣に初めて共産党が入閣した。 これは共産党がブルジョワ政府の閣僚となった世界史上最初の例である。 さらにこの内閣にはアナーキストも入閣した(アナーキストの中にはあくまで政権参加を拒否する人々も多く、分裂した)。 こうしてブルジョワ共和派から社会主義者、共産党、アナーキストを含む文字通りの人民戦線内閣となった。 しかし各党派はフランコ軍・ファシストと戦う点では一致していたが、根本的な戦略では違いが大きく、複雑な対立関係があった。 次に主要な三派の概略をあげる。 ・共産党は1921年に創設されていたが、スペインでは小政党に過ぎなかった。 コミンテルンの指示に従い、プロレタリア革命を目指すのではなく、民主主義共和国を擁護する人民戦線戦術への転換を明確にして、ファシストとの戦争に勝つことを最優先する姿勢をとった。 カタルーニャではPSUC(カタルーニャ統一社会党)と称してコミンテルンに所属し、スペイン共産党とは別個に人民戦線に参加した。 これらの共産党勢力はソ連の軍事支援を受けてフランコ軍との戦いの主力となっていく。 特にマドリード防衛では女性指導者ドロレス=イバルリ(ラ=パッショナリア)が人望を集めた。 ・マルクス主義統一労働者党(POUM)は共産党を個人崇拝と官僚主義に変質したソ連共産党に従属するスターリニストとして批判し、スペイン革命をプロレタリア革命に転化させよ、と主張していた。 人民戦線には当初参加したが共産党との対立から、途中で脱退した。 フランコとの戦闘では積極的に闘ったが、党員数は少なかった。 共産党はPOUMをファシストに力を貸すにすぎないとして非難し、トロツキストと規定したが、トロツキー自身はPOUMとは関係がないと言っている。 イギリスの作家ジョージ=オーウェルはPOUM民兵として参戦した。 ・の思想で行動するアナーキストは、議会政治や軍隊などの国家機関を否定し、労働組合の自発的な社会管理(アナルコ=サンディカリズム)を主張していた。 スペインでは19世紀70年代からカタルーニャの工業地帯でバクーニンらのアナーキズムの影響を受けた労働組合運動が盛んだったことが特徴的である。 アナーキストはスペイン戦争の前半で最も戦闘的にフランコ軍と戦ったが、同時に資本家や地主、聖職者を容赦なく殺害するなど恐怖心を与えた。 アナーキスト派の民兵を率いるボナベントゥラ=ドルティは最も勇敢かつ容赦なくファシストと戦っているということで大衆的にも最も人気が高かった。 現代ドイツの作家エンツェンスベルガーの『スペインの短い夏』はドルティに焦点を当てている。 マドリードの攻防 1936年10月、フランコ軍はモロッコからの増援部隊を得て首都マドリードに迫り、ドイツ・イタリアの空軍による爆撃を開始した。 マドリード陥落は時間の問題とみられ、世界中が注目する中、人民戦線は予想外の抵抗を続け、2年半持ちこたえる。 共産党の女性指導者ドロレス=イバルリが先頭に立ってバリケードを作り、「奴らを通すな!(ノー、パサラン)」を合い言葉に戦った。 燃料や食料が不足する中で戦い続けるマドリード市民に対して、世界中から同情と支援の声が起こり、国際義勇兵としてマドリード防衛に参加する者も多かった。 11月、フランコ軍が2万の兵力で総攻撃を開始、大統領アサーニャと政府はマドリードを出てバレンシアに避難した。 しかし残った市民と民兵はなおも頑強に抵抗、ドルティの率いるアナーキスト大隊が応援に駆けつけて側面からフランコ軍を攻撃したため、フランコはマドリードに入城できなかった。 しかしドルティはこの戦闘で腹部に銃弾を受けて戦死した。 国際義勇軍 1936年11月8日には市民の熱狂的な歓呼に迎えられマドリードに姿を現した。 ドイツ人、フランス人、ベルギー人、ポーランド人その他世界各国の市民が個人の資格で義勇兵となり、市民とともに戦った。 国民義勇兵を組織的にスペインに送ったのはであった。 コミンテルンが各国共産党を通じて募集し、資金と旅券を準備してスペインに送った。 国際義勇兵の正確な数は不明だが、フランス人1万、ドイツ人5千、イタリア人3350、アメリカ人2800、イギリス人2千、その他カナダ、ユーゴスラヴィア、ハンガリー、スカンディナヴィア諸国、その他50ヵ国以上が含まれていた。 また、国際義勇兵にはフランスのアンドレ=マルロー、アメリカのヘミングウェー、イギリスのジョージ=オーウェルなどの著名な作家が参加し、多くのルポルタージュなどを残している。 フランコ軍のマドリード攻撃が手間取っている間、ドイツ・イタリアは反乱軍がブルゴスに設けた臨時政府を公認し、軍隊を義勇兵と称して送り込んだ。 イギリスとフランスの政府はそれでも不干渉政策を改めず、全面的な国際義勇兵の参加を禁止する措置をとり国境監視を強めた。 マドリードの戦闘が一進一退を続ける中、各地で戦闘が広がり、1937年3月にはマドリード北方のグァダラハラでイタリア正規軍が人民戦線民兵に敗れて多数の捕虜がでたため、イタリア正規軍の介入が明るみに出て国際的な非難が高まり、ムッソリーニが激怒するという事態となった。 ゲルニカ空爆 マドリード戦線の停滞、グァダラハラの敗北によってフランコは戦線をスペイン北部に転じた。 ビルバオを中心としたバスク地方は工業先進地域で独立心が強く、人民戦線政府も認めて36年10月に共和派・社会党・共産党が参加するバスク自治政府が成立していた。 37年3月、反乱軍によるバスク攻撃が開始され、陸上と海上から包囲した。 その上で4月26日、バスクの小さな町に対しドイツ空軍による空爆が三時間にわたって行われ、人口7千の町で死者1654人、負傷者889人を出し、まもなく陥落した。 このドイツ軍の無差別空爆は、多くの市民を戦争に巻き込み、国際的な非難が巻き起こった。 スペインの画家で亡命していたピカソは抗議を込めて大作『ゲルニカ』を描いた。 内戦の中の内戦 人民戦線政府はイギリス・フランスの支援のない中で、フランコ軍・ドイツとイタリア軍の連合軍と戦った。 国際義勇軍の支援を受けたが、それは個々の義勇兵の純粋な動機を越えて、ソ連・コミンテルンとその意図を受けた共産党の発言力を政府内で強めることとなった。 すると共産党に反発するトロツキー派、アナーキストとの本質的な対立点が再び鮮明となっていった。 首相の社会党左派ラルゴ=カバリェロはアナーキストに同調したので、政府内が共和派-共産党-社会党右派と、社会党左派-トロツキー派-アナーキストという二つの陣営に分かれていった。 両派の対立は1937年5月、バルセロナで両派の銃撃戦となって火をふき、千人もの死者が出るという「内戦の中の内戦」となってしまった。 ラルゴ=カバリェロは退陣し、人民戦線政府は内部から崩壊の危機に瀕した。 その後の主導権を握った共産党・コミンテルンは、トロツキー派・アナーキストをファシストの手先として厳しい粛清を開始、両派は人民戦線政府から排除され、組織は壊滅していった。 ソ連-共産党の主導権 人民戦線を構成する各派の中で、共産党の主導権が次第に強まっていった。 引用 全般的な右傾は大体1936年10月~11月頃から始まるが、それはソ連が政府に武器を供給しはじめ、権力がアナーキストからコミュニストに移行し始めた時であった。 ・・・ソ連か介入しはじめるや、共産党の勝利は確実となった。 第一にロシアの武器に対する感謝の念が、そして特に国際旅団の到着以来、共産党が戦争に勝利を収めそうに見えだした事実が、大いに共産主義者の威信を高めた。 第二にロシアの武器は共産党およびそれと同盟する諸党派を通じて供給され、彼らの政治的反対者にはできるだけ渡すまいとされたことである。 第三に非革命政策を宣言することによって、コミュニストは過激派がおびえさせたすべての人々を味方につけることができた。 ・・・共産党の党員は著しく増えた。 増えたのは主として中産階級、商店主、公務員、士官、富農、等々であった。 ・・・最後に最も重要なことがだ、労働組合を基盤とした労働者の民兵は徐々に解体され、新しい人民軍のなかに再編成された。 ・・・この改組の主な目的は、アナーキストが彼ら自身の軍隊を持たないことを確実にすることだった。 ・・・外見上、ごく短期間にせよ労働者の国家のように見えていたものが、見る間に貧富の差のある普通のブルジョワ共和国へと化しつつあった。 <ジョージ=オーウェル/鈴木隆・山内明訳『カタロニア賛歌』1938 現代思潮社 1966刊 p. 53-55> ファシスト連合軍の攻勢 ファシスト連合軍は6月、バスク地方のビルバオを制圧、自治権を剥奪しバスク語を禁じた。 マドリード近郊のブルネテでは7月の炎天下、ドイツの戦車に守られた反乱軍とソ連製戦車で武装した人民戦線軍という、事実上ドイツとソ連の第二次世界大戦の前哨戦となった戦いが行われ、人民戦線側が死者2万5千を出して敗れた(この時、の中でただ一人の日本人とされるジャック=白井が戦死した)。 北部戦線を制圧したファシスト連合軍は、37年10月末にバルセロナに移った人民戦線政府を追って、カタルーニャ総攻撃に転じ、38年1月からバルセロナ空爆を開始した。 人民政府側は戦局を回復する最後の試みとして8月にエブロ河渡河作戦を敢行し、驚くべき粘り強さで10月までファシスト軍の進撃を食い止めた。 国際情勢の転換 しかし、国際情勢は決定的にスペイン人民戦線を見殺しにした。 1938年9月のミュンヘン会議でイギリス・フランスはヒトラードイツのズデーテン割譲を承認したのである。 このによってイギリス・フランスはヒトラーと妥協することで平和を維持しようとし、それを見たスターリンはイギリス・フランスに対する不信を強めてドイツとの提携に転じたのである。 同時にスターリンはスペイン人民戦線に対する支援を打ち切ることを決意したと思われる。 戦争の終結 1939年1月、カタルーニャ戦線のファシスト連合軍は、ドイツ・イタリア軍を含めて34万、人民戦線政府軍は9万。 政府軍は武器弾薬も底をつき、バルセロナ市民は食糧も尽きる状態となった。 多くの難民がフランス国境に押し寄せた。 ついに1月26日、フランコ軍は人影のないバルセロナを占領、人民戦線政府のアサーニャなど首脳は徒歩でフランスに逃れた。 2年以上にわたって抵抗していたでは、守備隊がクーデタで共産党などを排除し、降伏を決定、3月28日に降伏した。 フランコは全ヨーロッパに内戦の終結を放送、最後に残ったバレンシアも30日に陥落して、スペイン第二共和政は7年数ヶ月で倒れ、亡命政権となった。 カー/富田武訳 『コミンテルンとスペイン内戦』 2010 岩波モダンクラシックス DVD案内 ヘミングウェー原作 サム・ウッド監督 『誰がために鐘は鳴る』 ゲイリー・クーパー/イングリット・バーグマン主演 ホセ=ルイス=クエルダ監督 『蝶の舌』 フェルナンド・フェルナン・ゴメス出演 少年の見た1936年.

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「」および「」も参照 世界的な強国としてのの地位は19世紀後半までの数世紀の間に低下し、、およびでのほんの少数の散在した植民地しか残らなかった。 その多くも、独立のための運動を繰り広げていた。 ではによりでは や()、などにより既に数十年に渡る戦争が展開されていたがスペイン政府はこれらの脅威に対する金融あるいは人的資源を持っていなかった。 そこでキューバに於いてを構築し住民と独立軍を分離し支援を止めさせる作戦を布告した。 スペインはさらに反逆者と疑わしい人々の多くを処刑し、村々に残酷な扱いを行った。 にはキューバ島の約半分がマクシモ・ゴメス将軍の率いる独立軍に支配され、結局スペインの立場は完全には回復しなかった()。 ジャーナリズムの読者数獲得競争と捏造記事 [ ] 「」、「」、「」、「」、および「」も参照 キューバでのこれらの出来事は、アメリカのが読者数を伸ばそうとしていた時期と一致した。 1897年の「アメリカ婦人を裸にするスペイン警察」という新聞記者による捏造記事をきっかけに 、各紙はスペインのキューバ人に対する残虐行為を誇大に報道し、アメリカ国民の人道的感情を刺激した。 そしてキューバへの介入を求める勢力の増大を招いた。 西部への拡張およびアメリカとの大規模交戦の終了はの任務を減少させ、軍の指導陣は新しい任務を望んだ。 早期からアメリカ人の多数はキューバが彼らのものであると考えており、に関する理論はちょうどの沖合に非常に魅力的に見える島を作った。 キューバの経済の多くは既にアメリカの手にあり、ほとんどの貿易 その多くは闇市場だった はアメリカとの間のものであった。 何人かの財界人は、開戦を同様に要求した。 の議員ジョン・M・サーストンは「スペインとの戦いは、すべてのアメリカの鉄道ビジネスおよび所得を増加させるだろう。 それは、すべてのアメリカの工場の出力を増加させるだろう。 それは、産業と国内通商のすべての流通を刺激するだろう」と明言した。 太平洋を渡ってマニラまで2ヶ月はかかる時代であったが、開戦からわずか約2週間後の5月1日に、が勃発した。 戦闘の経過 [ ] 戦争の始まり [ ] 1898年にでアメリカ海軍の戦艦(USS Maine, ACR-1)が白人士官の上陸後に爆発、沈没し266名の乗員を失う事故が発生した(この中には8名の日本人コックとボーイが含まれていた)。 爆発の原因に関する証拠とされたものは矛盾が多く決定的なものが無かったが、ニューヨーク・ジャーナル、ニューヨーク・ワールドの2紙を始めとした当時の米国のメディアはスペイン人による卑劣なが原因であると主張した。 「Remember the Maine, to Hell with Spain! (メインを思い出せ!くたばれスペイン!)」という好戦的で感情的なを伴ったこの報道は、一層米国民を刺激することとなった。 この愛国的で好戦的な風潮はスプレッド・イーグリズムあるいはとして知られている。 爆発原因に関する専門家の見解は現在も定まっていないが燃料のの偶然の爆発によるものとするのが一般的であり、コンピューター・シミュレーションによって確認もされている(は、調査により原因をのと結論づけている )。 一方石炭自体にその原因を求めるものや米国を戦争に引き込もうとするキューバ人によるサボタージュによるものとする異論も存在するが、スペインが戦争に消極的であったという点では一致している。 は開戦に同意せず、世論に対して長い間持ちこたえた。 しかしメイン号の爆発は、戦争への世論を非常に強力に形成した。 スペイン首相・サガスタ()はキューバから職員を撤退させてキューバ人にを与えるなど、戦争を防ぐ為の多くの努力をした。 しかしながらこれはキューバの完全独立には不十分なもので有り、大きく現状を変更するには足りなかった。 、マッキンリー大統領は内戦の終了を目的としてキューバへ米軍を派遣する権限を求める議案を議会に提出。 に議会はキューバの自由と独立を求める共同宣言を承認し、大統領はスペインの撤退を要求する為に軍事力を行使することを承認した。 これを受けて、スペインはアメリカとの外交関係を停止。 にはアメリカとスペインの間の戦争状態が以来存在することを宣言した(議会はその後、に戦争の宣言をさかのぼらせる議決を承認した)。 太平洋 [ ] フィリピン [ ] 「 (、)」も参照 フィリピンでの最初の戦闘は5月1日のである。 を出港した提督率いるアメリカ太平洋艦隊が、マニラ湾で()提督率いる7隻のスペイン艦隊を攻撃した。 6時間でスペイン艦隊は旗艦を含む3隻が沈没、4隻が炎上するなど壊滅状態に陥ったが、アメリカ艦隊の被害は負傷者7名のみとほぼ無傷であった。 の結果、フィリピンのスペイン海軍は壊滅したが、マニラでは1万人以上のスペイン陸軍が駐留していた。 海戦後にデューイと会談し、勝利の暁に独立させると約束されたフィリピン独立運動の指導者率いるフィリピンの民族主義者は、アメリカ軍の支援と相互連携してスペイン軍を攻撃した。 独立軍は1万人を超え、1898年6月にはルソン島中部を制圧し、アギナルドはフィリピン共和国の独立を宣言し、暫定政府を組織した。 アメリカ本国のマッキンリー政権はマニラ市を占領するためウェズリー・E・メリット()少将の指揮で大規模な派遣軍(正規軍5千人を含む2万人規模)を派遣した。 6月30日に派遣軍の先発部隊、7月半ばにはメリット少将も現地に到着し、8月にはスペイン軍に降伏勧告を行い、14日に休戦協定が決定した。 フィリピン人による報復を恐れたスペイン軍は、へフィリピン軍が入城しないことを降伏条件としており、スペイン降伏後のフィリピンの統治はアメリカが握ることとなった。 これは側からすると不満な結果であり、独立運動の対象はスペインからアメリカへ移り、へ繋がることとなった。 グアム島 [ ] 率いる キューバに駐屯していたスペイン軍は約 10 万を数えたが、サンチャゴ湾付近には 14,000 人ほどしか配置されていなかった。 アメリカの陸上兵力は義勇騎兵隊であるを含む約 17,000 人である。 陸上での大きな戦いは7月1日の ()と ()(サン・フアン・ヒルの戦い)だけだったが、要所であるサンフアン高地が陥落するなど一日で決着がついた。 この時ラフ・ライダーズ連隊の中佐としてサン・フアン高地の戦いを指揮し、戦争の英雄となったのがである。 米軍はガルシア将軍 によって率いられた独立支持者によってキューバで援助された。 7月3日にスペイン艦隊が湾外に脱出したところ、アメリカ海軍に捕捉され攻撃を受け沈没、座礁、降伏などで全滅した()。 米軍はスペイン艦隊を撃破しキューバ周辺のスペインに管理された水路を破った。 これはスペイン軍の再補給を妨げ米軍が相当兵力を安全に上陸させることを可能にした。 その後、サンチャゴ要塞に籠城したスペイン軍との間でサンチャゴ攻囲戦が続いた。 地上戦は、スペイン軍に対するよりも熱および疾病への対処の方が問題であった。 7月17日にサンチャゴ要塞は降伏。 7月21日には小規模なが発生し、アメリカ艦隊がスペイン艦を撃破した。 アメリカ軍は、8月7日にはキューバからの撤収を開始した。 秋山真之は報告書「サンチャゴ・デ・クーバの役」(極秘諜報第百十八号)において、米軍の前線部隊がハイチ島経由の海底電線の端末を用いてアメリカ本国と通信を交わしていたこと、仮の根拠地を作り軍需品の供給のスピードを高めていたこと、キューバ独立軍に兵器や食料を与えることにより米軍が独立軍の支援を受けていたことなど、兵站・後方支援に見るべきものがあったと強調している。 プエルトリコ [ ] 詳細は「 (、)」を参照 7月25日に、米軍はに上陸した。 影響 [ ] アメリカ軍管理下のキューバの独立 [ ] スペインは太平洋艦隊、大西洋艦隊を失い戦争を継続する能力を失った。 交戦状態はに停止した。 形式上の和平条約はにで調印され()、にアメリカ上院によって批准された。 アメリカはフィリピン、およびプエルトリコを含むスペイン植民地のほとんどすべてを獲得しキューバをとして事実上の支配下に置いた。 以降、アメリカのは飛躍的に拡大していき南北アメリカ大陸と太平洋からスペインの影響力が一掃され代わりにアメリカが入れ替わって影響力を持つというの移譲とも取れる流れになっている。 スペインは戦後、植民地を失ったために国力が低下し新興国家・アメリカにあっけなく敗れたことから欧州での国際的地位も発言力も同時に失った。 から始まった・のが破綻し、に支えられた新しい帝国主義へ完全に移り変わった瞬間とも取れる。 連邦議会は開戦前に、キューバの独立を支持してこれを討論の後承認した。 アメリカ軍はまでキューバを占領した。 南北間の和解 [ ] この短い戦争の、もう一つの興味深くほとんど注目されなかった影響はアメリカの北部と南部の関係を固める役目をしたということである。 この戦争は、のの終了以来初めて両側に共通の敵を与えた。 は北軍支持者と南部連邦支持者の間の和解の期間で、北部と南部の政治家の政治的な調和を増加させた。 人種差別の再燃 [ ] 1890年代はさらに、北部におけるの再燃との可決による白人と黒人の分離を増加させた。 それはのの最高裁判所による判決で最高潮に達して、その「分離すれども平等」主義を法律の中へ成文化した。 イエロー・ジャーナリズム [ ].

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この記事には 複数の問題があります。 やでの議論にご協力ください。 がまったく示されていないか不十分です。 内容に関するが必要です。 ( 2016年3月)• によるの参照が不十分です。 ください。 ( 2015年11月) スペイン内戦 (上段左より時計回り) ()に展開する ()の戦車 反乱軍の戦闘機 ()での爆撃 ()における共和国軍兵士 ナショナリスト軍の対空砲 付近で警戒にあたる戦艦 戦争: 年月日:1936年7月17日 - 1939年4月1日 場所: () 結果:反乱軍の勝利。 第二共和政の崩壊。 による成立。 交戦勢力 () 指導者・指揮官 () () () () () () 戦力 歩兵 450,000 航空機 350 歩兵 600,000 航空機 600 目次• 概要 [ ] スペイン内戦は、スペイン陸軍の将軍グループがスペイン第二共和国政府に対してクーデターを起こしたことにより始まったスペイン国内の抗争だった。 内戦は1936年7月17日から1939年4月1日まで続き、スペイン国土を荒廃させ、共和国政府を打倒した反乱軍側の勝利で終結し、に率いられたを樹立した。 フランコ政権の政党ファランヘ党は自らの影響力を拡大し、フランコ政権下で完全なファシスト体制への転換を目指した。 内戦中、政府側の共和国派(レプブリカーノス)の人民戦線軍はソビエト連邦とメキシコの支援を得、が各国を使って、諸国の個人から多くの義勇兵(その大半は共産党員) を得た一方、反乱軍側である民族独立主義派(ナシオナーレス)の国民戦線軍は隣国ポルトガルの支援だけでなく、イタリアとドイツからも支援を得た。 この戦争は第二次世界大戦前夜の国際関係の緊張を高めた。 この戦争では特に戦車および空からの爆撃が、ヨーロッパの戦場で主要な役割を果たし注目された。 戦場マスコミ報道の出現は空前のレベルで人々の注目を集めた(小説家の、、写真家らが関わった)。 そのため、この戦争は激しい感情的対立と政治的分裂を引き起こし、双方の側の犯した虐殺行為が知れわたり有名になった。 他の内戦の場合と同様にこのスペイン内戦でも家族内、隣近所、友達同士が敵味方に別れた。 共和国派は新しい反宗教な体制を支持し、反乱軍側の民族独立主義派は特定複数民族グループと古来のカトリック・、体制を支持し、別れて争った。 戦闘員以外にも多数の市民が政治的、宗教的立場の違いのために双方から殺害され、さらに1939年に戦争が終結したとき、敗北した共和国派は勝利した民族独立派によって迫害された。 人民戦線派の反カトリック姿勢は徹底しており、内戦中、人民戦線派支配領域で殺害された聖職者は、その1割に相当する7000人に上り、その大半は内戦当初の1936年秋に殺害された。 邦訳については スペイン内乱、 スペイン市民戦争とも表記され、特に近年は後者が用いられることも多い。 プリモ・デ・リベラ 後のスペインでは、右派と左派の対立が尖鋭化していた上にやなどの地方自立の動きも加わり、政治的混乱が続いていた。 そのため、一時はによる軍事独裁政権も成立した。 に左派が選挙で勝利し、王制からへと移行( スペイン革命)しが成立した。 他の西洋諸国とは異なり、スペインのや左派者は志向であり、カトリック教会の施設破壊や略奪が、左派指導者の使嗾あるいは黙認の下で行われたため、左派の政権運営は混迷を深めた。 多くの国民が左派政権に失望するなかで行われた1933年の総選挙では、スペイン自治右派連合(CEDA)が第一党となった。 大統領がCEDAの党首のを嫌ったため、左派から離脱した、中道派ののがCEDAの協力を得て首相に就任した。 中道右派政権が誕生すると、各地で左派勢力による暴力事件が頻発し、には地方で大規模な暴動が発生した。 この暴動鎮圧は穏便であったが、政権は国内左派のみならず、国際的にも非難を浴びた。 、レルー首相は汚職スキャンダルで退陣に追い込まれ、急進党が壊滅状態になると、大統領は国会を解散し、総選挙が2月に行われることが決まった。 1935年に第7回大会で戦術が採択されると左派勢力の結束が深まり、の総選挙で、従来あらゆる政府に反対する立場からを呼びかけていた無政府主義者達が自主投票に転換した。 その結果、再び左派が勝利し、()を大統領、()を首相とする人民戦線政府が成立した。 しかし、人民戦線も大きく分けてを志向する穏健派と、・革命を志向する強硬派が存在し、当初は決して一枚岩ではなかった。 、共和派軍人として有名であった ホセ・カスティージョ が4人のによって暗殺される事件が発生。 に率いられたカスティージョの同志達は報復として、翌にスペイン派の中心人物の一人であった を暗殺した。 ソテロ暗殺は、警察による組織的犯行という点で、欧州議会制デモクラシーの社会では例を見ない事態であった。 キローガ政権は暗殺に非難声明を出し、アサーニャ大統領を始めとする政権内の穏健派は、暗殺が反乱の引き金になると憂慮したが、ソテーロ暗殺により、「もはや反乱を起こさない方が、起こす方よりも危険である」との認識が広まり、その危機感をバネに兼ねてから反乱を準備していた右派は急速に結束した。 一方、人民戦線内の左派やなどはの動員に走り、労働者への武器供与を要求した。 また、の頻発や地方議会の打倒など、ムードを高めて行った。 、 を首謀者として、ので反乱が起こった。 要注意人物としてに左遷されていたフランコなどがこれに呼応し、フランコは植民地モロッコを拠点にスペイン本土に攻め上った。 反乱が起こると、の脅威に直面した、、、、、内の右派などの右派勢力はこれを支持してスペイン全域を巻き込む内戦へと突入した。 政権側に留まったのは共和制支持者や左翼政党、ブルーカラー労働者、やを求める勢力などであった。 アサーニャは右派をなだめるためキローガ内閣を辞職させ、、後任に穏健派である共和統一党の を擁立した。 バリオはモラにの座を用意して懐柔しようとしたが、モラは「貴兄と意見の一致をみたなどと(反乱軍民兵隊の)連中に言ったら、私が真っ先に血祭りにあげられてしまう。 マドリードの貴兄も同じことが言えるんじゃないか。 二人とも、もはやお互いの大衆を抑えることなどできないんだ」と拒否した。 一方、人民戦線内の左派は、反乱軍と交渉したバリオを「裏切り者」と非難した。 民衆は倒閣のを起こし、はバリオを血祭りに挙げるよう気勢を上げた。 バリオ内閣はわずか2日で辞職に追い込まれ、、徹底抗戦を掲げる 内閣(左翼共和党)が成立した。 また、ヒラル内閣は労働者への武器供与要求を受け入れた。 ただし、どちらの勢力も一枚岩ではなく、軍部などでも主に地理的事情で人民戦線側に付いた者も少なくなかった。 フランコ一族も、フランシスコ・フランコとその兄弟に対して従兄弟は人民戦線側に付いた。 軍部は数の上では真っ二つに割れたが、主力は反乱軍側に付いたため、人民戦線側の軍事力は当初から劣勢であった。 内戦の展開 [ ] 1936年の8月から9月にかけての勢力圏 当初の反乱指導者はモラであったが、を陥落させるなど反乱軍内部で声望を高めたフランコが、反乱軍の総司令官兼に選出され、指導者の地位に就いた。 フランコは、ファシズム政権を樹立していたとから支援を受けた。 モロッコのフランコ軍は、両国の協力によって本土各地へ空輸されて早期な軍事展開を果たした。 隣国のに成立していたによる独裁政権もフランコを助けも少量ながらフランコ軍に武器を援助した 、も率いる義勇軍がフランコ側に参戦した。 ドイツからは、空軍の「コンドル軍団」と空軍の指揮下で行動する戦車部隊、数隻の艦艇、軍事顧問が派遣された。 イタリアはフランコにとっては最大の援助国であり、4個師団からなるスペイン遠征軍 CTV と航空部隊、海軍部隊がスペインに派遣され、物資援助も含めると、援助額は当時の金額で14兆リラに達している。 後に、フランコ政権に対して7兆リラの支払いが求められたが、踏み倒されている。 ポルトガルは、最大で2万人規模の軍隊を派遣していた。 当時、ファシズムに対してをとっていた、は、内戦が世界大戦を誘発することを恐れてを選んだ。 隣国では、を首相として人民戦線内閣が成立し、当初は空軍を中心とした支援を行ったが、閣内不一致で政権は崩壊し、結局はイギリス、アメリカと同様に中立政策に転換した。 そのため、人民戦線政府は国家レベルではソビエト連邦とメキシコからしか援助を受けられなかった。 ソ連の軍事援助は莫大だったが有償であり、メキシコからの軍事的な援助は全体からみればごくわずかであった。 しかし、に各国から義勇兵が駆けつけたことは、反ファシズムの結束を象徴的に示すことにはなった。 また、フランコの反乱と時を同じくして、工場労働者や農民などによる革命が勃発し、地方の実権を握ったとは指摘している。 この革命は主に無政府主義者や左派の支持者によって起こったが、ボロテンによれば、人民戦線路線を取るソ連にとってこの革命は不都合なものだったので、実態を隠蔽してではなく「革命」の段階であると主張したという。 また、人民戦線政府にとっても、革命は英仏の心証を害しかねないため、やはり言及を避けた。 反乱軍の進撃 [ ] 内戦の初期においては、人民戦線側は、、、、、など国土の大半(どちらかというと地中海よりの国土の東半分)を確保したのに対して、反乱軍側はと(反乱軍を支援するポルトガルと国境を接する西側の地域)を確保していたに過ぎなかった。 反乱軍は当初は首都のマドリード(攻撃が激化すると政府はへ移転、さらにへ移転)を陥落させようと図るが、人民戦線側も国際旅団などによって部隊が増強されており、市民の協力でが掘られ、ソ連から支援武器が到着したこともあり、必死の抵抗をみせた。 結局マドリードは、内戦の最後まで人民戦線側に掌握され続けた。 このため、内戦は長期化の様相を見せはじめ、フランコ将軍は北部の港湾地域、工業地帯制圧へと戦略を切り替えた。 空襲を受けた後のゲルニカ 反乱軍は、当初からフランコが全権を握っていたわけではなかったが、フランコがドイツ・イタリアの支援をとりつけていたこと、反乱軍側の指導者であったモラの事故死(6月)などが重なって権力の集中が進み、(創設者の侯爵は人民戦線側に捕らえられ処刑)と他政党を統合・改組させてその党首に就任、他政党の活動を禁止させてファシズム体制を固めた。 反乱軍の北部制圧は確実に進められ、1937年春には北部のバスク地方が他の人民戦線側地域から分断されて孤立し、(6月)、(8月)、(10月)など主要都市が陥落して、アストゥリアスからバスクは完全に反乱軍に占領された。 その間のにはバスク地方のが、ドイツから送り込まれた航空部隊のを改造した爆撃型を主体とした24機による空襲()を受けた。 これは前線に通じる鉄道・道路など交通の要であった同市を破壊して共和国軍の補給を妨害することが目的で、巻き添えとなった市民に約300人の死傷者が出た(共和国側は死傷2500人以上と、被害を過大に発表。 当時は爆撃の真相は不明で、人民戦線軍による焦土作戦と言うフランコ側の主張もかなり信じられていた。 これ以前から民間人に対する無差別爆撃は双方により行われており、バルセロナなどではより多数の死傷者が発生していたのだが、の絵画『』の題材になったことで、一躍有名になった)。 さらに、1938年に入ると南部ではアンダルシア地方の大部分がフランコ側に占領され、中央部でも南岸地域の制圧によって反乱軍はバレンシア地方北部で沿岸にまで達した。 これにより、共和国側の勢力はカタルーニャとマドリード、ラ・マンチャで南北に分断され、カタルーニャの孤立化が進んだ。 共和国軍の混迷 [ ] 当初、ソ連から送られてきた戦闘機 ポリカルポフI-15、およびI-16系 と爆撃機 SB-2 は、反政府軍空軍はもちろん、独伊の空軍機をも性能面で圧倒しており、戦場の制空権は政府側のものだった。 ソ連製の戦車、装甲車もまた、走攻守全てで反政府側の装甲戦闘車両を圧倒しており、マドリード攻防戦ではイタリア軍の戦車部隊を一方的に壊滅させている。 しかしながら、共和国軍(反ファシズム)側の足並みがそろわないことや、軍隊運営の不効率などで、十分に優位を活かしきれなかった。 そもそも、労働者達は軍を敵視していたから、戦場でも共和国軍に留まった軍人の進言に耳を貸さなかった。 一方、反乱軍は軍隊組織の秩序を維持していたから、しばしば物量に勝る共和国軍を破った。 さらに、民兵達は党派ごとに指揮系統もバラバラで、他党派の軍勢が負けると互いに喜ぶといった有様だった。 急進的であり労働者自治()革命を志向する全国労働連合と(CNT・FAI)は、反スターリンの立場を取る左翼政党(POUM)と協力し、統治下の地域で的な政策を導入しようとした。 バルセロナでは、労働者による工場等の接収もみられた。 緒戦の敗退から、ようやく共和国軍も軍隊の再建に乗り出したが、その過程でスペイン共産党が、ソ連の援助もあって共和国軍の主導権を握ることになる。 「」も参照 当時は用にを保有しており、保有量は約710トンで当時世界3位と推定されていた。 しかし、反乱軍の手に渡らないよう、適当な保管場所に移す必要があるという話が持ち上がった。 また、この金は、英仏の不干渉政策によって、武器購入のができなくなっていたため、現金購入の資金として、外貨調達を行うために使われた。 そこで、両方の目的のため、共和国側が抑えていた唯一の海軍基地であるの洞窟に移された。 当初はカルタヘナからへ金を輸送し、そこで外貨を調達した。 輸送量は200トンに上ったが、輸送の遅れやフランス銀行からの資金受け渡し認可に手間取ったため、武器調達ははかどらなかった。 しかも、イギリスの銀行は、この取引を「歓迎すべからざる目的」と見なして、資金引き渡しのを行った。 また、反乱軍は資金の受け取りを「者一味との恐るべき共同犯罪」であり、「略奪」行為であり、に抵触すると喧伝し、訴訟などちらつかせ各国の銀行を牽制した。 こうした情勢から、親ソ派を中心にソ連への金移送が持ち上がり、ソ連も渡りに船とこれに応じた。 しかしアサーニャ大統領やネグリン首相への事前の相談はなかったといわれている。 ソ連に輸送された金は約510. 08トンにのぼり、当時の価値で5億を超えた。 その多くは金塊ではなく各国のだった。 また、骨董的価値のある金貨も少なからず存在した。 共和国の支援国ソ連は武器・人員を援助したが、それらの支援は有償であり、また、金の一部でアメリカとチェコから自動車を調達してスペインに送っている。 戦後、『』は号でスペインは金を使い果たしたばかりか、5000万ドルのがソ連に対して残っていると主張したが、ソ連側は取引の明細を公開しなかったため信用されておらず、ソ連が金をしたという批判も受けている。 現在では、ソ連から直接送り出された物資、各種兵器は4700万ルーブル分となっているが、これにはソ連が外国で調達した物資が含まれておらず、また、輸送途中でフランコ側海軍に阻止された分が含まれていない可能性もある。 いずれにせよ、共和国は資金を丸ごとソ連に差し出した形になり、ソ連に対してばかりか、第三国の武器禁輸を解くための交渉能力も失った。 また、人民戦線内閣の崩壊直前にも、恐らくはフランコ政権へのあてつけのために金塊が運び出されている。 これらの金塊に関しては、フランコ政権とソ連が国交回復したおり、返還について協議がもたれたようであるが、詳細は不明確である。 支援物資を港に荷卸し中のソ連貨物船「クルスク」(1936年12月) 更にソ連は、いいかげん内部抗争に嫌気がさしたこともあって、人民戦線の指揮権を掌握することを目論み、などに偽装したが現地に派遣され、ソ連及びスペイン共産党の方針に反対する勢力を次々に逮捕・処刑した。 最大の援助国ソ連の意向によって内戦の進展とともに共産党は次第に勢力を拡大していった。 アナキストのCNT・FAIやのPOUMはコミンテルンに同調しなかったため、の統制下にあったは彼らを批判し、内部対立を深めた。 さらに、スペイン共産党側はマルクス主義統一労働党がフランコ側に内通しているとする証拠を偽造し、一気に潰そうとしたが失敗した。 のスペイン支部は、スターリン主義共産党のみならず、マルクス主義統一労働党やCNT・FAIの日和見主義をも批判したが、その勢力は数十名(しかもほとんどが外国人)を超えることはなく、革命に現実的な影響力を及ぼすことはできなかった。 1937年5月、バルセロナで遂に共産党を始めとする人民戦線政府とアナキスト・トロツキストは衝突へと至り()、500名近くの死傷者を出す惨事となった。 共産党側は反対派をで脅したが、相次ぐに内外の反発を買ったばかりか、地域政党とも共同歩調をとることが困難であった。 しかし、イギリス・フランスなど他国が不介入政策を採り続けたため、ソ連に頼らざるを得ない状況だった。 国際的情勢は、さらにフランコに有利なものとなった。 カトリック教会を擁護する姿勢をとったことでローマ教会はフランコに好意的な姿勢をみせ、1938年6月にが同政権を容認した(実際には、これ以前にもこの後も、フランコ軍は平然と教会に対する砲爆撃を行っている)。 共和国側の残された願いは、が勃発してファシズム対反ファシズムの対立構図がヨーロッパ全体に広がり、国際的支援をとりつけることであったが、9月のでイギリス・フランスがファシズム勢力に対するを継続することが明白となり、この期待もくじかれた。 イギリス・フランスはファシズム勢力がソ連ら共産主義勢力と対立することを期待しており、ソ連の支援を受けた人民戦線に味方してもソ連という敵に塩を送ることになるばかりか、世界大戦の引き金となると考えていたのである。 人民戦線最後の攻勢と内戦の終結 [ ] 1938年11月時点の勢力圏 1938年7月25日、共和派は南北に分断された支配地域を回復しようと、周辺で大攻勢に出る( ())。 内戦のとなったこの戦いで共和国軍は約10万人を動員して総力を結集したことにより、緒戦は大きく前進したが、反乱軍が独伊の支援を含めた増援を送り込んだことによって戦線は膠着状態となり、やがて共和国軍はずるずると後退、11月16日に壊走した。 約3ヶ月続いた戦闘で最終的に両軍ともに甚大な打撃を受けたが、共和国軍は反乱軍の約2倍の死者を出し、戦力を消耗し尽くしたことで組織的戦闘は実質的に終了、反乱軍の勝利が決定的となった。 1938年12月より、フランコは30万の軍勢でカタルーニャを攻撃、翌1939年1月末に州都を陥落させた。 人民戦線を支持する多くの市民が、冬のを越えてフランスに逃れた。 2月末にはイギリスとフランスがフランコ政権を国家承認し、アサーニャは大統領を辞任、人民戦線政府はフランスに亡命した。 フランコ側は3月に内戦の最終的勝利を目指してマドリードに進撃を開始、それに対して共和派は徹底抗戦を目指す共産党と、もはや戦意を喪失したアナーキストの内紛が発生するなど四分五裂の状態に陥って瓦解した。 3月27日にマドリードが陥落、3月31日にはスペイン全土が反乱軍に制圧され、4月1日にフランコによって内戦の終結と勝利が宣言された。 国際旅団 [ ] におけるの戦車(1937年9月) 多くの国際的社会主義組織を始めとする反ファシズム運動が、この戦争に当たって結束した。 が組織され、、後にフランス文相となったなどが参加、日本人ではという人物が1937年7月に (: )で戦死している 名前が判明していない日本人参加者も数名いたと思われる。 さらに、戦闘で消耗を重ねた結果、末期には国際旅団といいながら兵士の大多数がスペイン人に置き換わっていた部隊もあったと言われる(三野正洋「スペイン戦争」)。 最初の国際旅団は、1936年10月に結成された第11国際旅団である。 その後第12~15国際旅団が結成された。 理由は不明だが、国際旅団には、11以降の番号が割り当てられている。 戦争終結直前に国際旅団は、イギリス外務省の「外国兵力を双方とも同程度撤退させる」との提案に従い解散した。 人民戦線にとって厳しい戦局の中でのこの決断は、国際旅団がもはや助けではなく重荷になっていたからだと考えられる。 メキシコ [ ] メキシコはが、共和派に対して資金援助を行なったり、で用いられていた旧式の航空機を共和派に供与したりするなど後方支援に当たった。 また、内戦終結後には多くの共和派将兵の亡命を受け入れている。 ラサロ自身は社会主義者ではなくに多い政治家であったが、共和派に理解を示していた。 また、労働者を中心に共和派に賛同する層も存在し、一部は義勇兵となる者もいた。 もっとも、メキシコ全体が共和派に賛同していた訳ではなく、(を中心に)フランコ派の支持者もまた多数存在していた。 アイルランド [ ] は、を掲げるカトリック団体などから参戦の要請があったものの、当時のはこれを固辞し、国家としてスペイン内戦に関わる事が無かった。 また、国民がスペイン内戦に関わる事も禁じられた。 しかし、民間においては、共和派・フランコ派のいずれかに参戦する個人や団体が出現した。 共和派においては、など左派の元IRAメンバーが義勇軍として参戦している。 フランコ派には、同じくIRA出身で元警察長官だったと彼の率いるファシズム団体「」(制服が緑色のであった事から「グリーンシャツ」とあだ名された)が、800人前後の義勇兵を「アイルランド旅団」としてスペインに派遣している。 彼らはスペイン内戦を「(アイルランドと同じ)カトリック信者の危機」と捉えていた。 しかし、1936年に派兵された頃には戦局がフランコ側に有利になっていた事、フランコ側が要求する軍事能力に乏しかった事、スペインの生活文化がアイルランドのそれと大きく異なっており隊員達が馴染めなかった事などから、軍事的な功績は得られないまま撤退した。 また、これによって同党も1937年に解散に追い込まれた。 戦後 [ ] 1936年8月-9月、スペイン内戦初期、率いる反乱軍(ナショナリスト軍 のによるの虐殺。 この24人のは、スペイン北部という小さな町にある。 2014年7月-8月に発掘。 内戦に勝利したフランコ側は、人民戦線派の残党に対して激しい弾圧を加えた。 軍事法廷は人民戦線派の約5万人に判決を出し、その半数を実際に処刑した。 特に自治権を求めて人民戦線側に就いたバスクとカタルーニャに対しては、、の公的な場での使用を禁じるなど、その自治の要求を圧殺した。 そのため、人民戦線側の残党の中から多くの国外亡命者が出たほか、など反政府テロ組織の結成を招いた。 カタルーニャからは冬のを越えてフランスに逃れた亡命者が数多く出たが、その直後に第二次世界大戦が始まり、フランスがドイツによって占領されたため、彼らの運命は過酷であった。 また、国家として人民戦線側を支援した数少ない国の一つであるメキシコは、政権の下、知識人や技術者を中心に合計約1万人の亡命者を受け入れた。 亡命者は知識階級中心だったので、彼らがメキシコで果たした文化的な役割は非常に大きいものがあった。 例えばメキシコ出版業界の元締めである社は、亡命スペイン人達によって設立された。 第二次世界大戦後も、人民戦線派への弾圧は続いた。 フランコの腹心で後継者を予定されていたは、米ソの東西を見て、人民戦線の残党を弾圧しても、共産主義の招来を恐れる西欧諸国は非難こそすれ、実効的な圧力を受けることはないから気にせず弾圧すればいいと進言したという(後にブランコはETAによって暗殺された)。 共和国政府は「 ()」として、メキシコ、次いでにて存続。 1975年のフランコの死後国王となったが独裁政治を受け継がず、で政治の民主化路線が決定づけられるまでその命脈を保った。 同年、亡命政府は総選挙の結果を承認し、大統領 ()が政府の解消を宣言。 、フアン・カルロス1世はマドリードにて亡命政府元首承継のセレモニーを行ない、形式的に二つに分かれていたスペイン政府の統一が果たされた。 内戦の双方の戦没者はマドリード州にある国立「」に埋葬されているが、フランコ時代に政治犯を動員して建設されたこと、モニュメントなどがいまでもフランコ時代の性格を残していることから、スペイン国内ではいまだ施設の性格の見直しを巡って議論の対象となっている。 影響 [ ] この内戦に参加することによって、ナチス・ドイツは貴重な実戦経験を得る事となった。 このことはヴェルサイユ条約下においてさまざまな軍事的な制限を受けていたドイツにとっては得難い経験であり、第二次世界大戦初期の戦闘を優位に進めることにおいて大いに貢献した。 交戦国・支援国・団体 [ ] 共和派 [ ]• (全国労働者連合)・(イベリア・アナーキスト連盟)• (労働総同盟)• (カタルーニャ左翼共和党)・• マルクス主義統一労働者党• (バスク軍) (1936年 - 37年)• (ガリシア党)• - 義勇兵を派遣するが、主として後方支援に回った。 ナショナリスト派 [ ]• (1936年 - 37年)• (スペイン右翼自治派連盟) (1936年 - 37年)• (1936年 - 37年)• - ()の部隊( ) 年表 [ ] 1936年 [ ]• 人民戦線協定の締結(1月)• 人民戦線政府の成立(2月)• スペイン領モロッコでフランコ将軍の蜂起(7月)• ドイツ・イタリアがフランコの支援を開始(9月)• ロンドンで不干渉委員会の開催(9月)• フランコ、トレドを占領(9月)• 元首をフランコとして新国家の樹立を宣言(10月)• フランコによるマドリード攻撃開始(10月)• 人民戦線、国際旅団の創設を承認(10月)• 人民戦線、政府をバルセロナへ移転(11月) 1937年 [ ]• グアダラハーラの戦い(3月)• ドイツ義勇軍()による(4月)• バルセロナで五月事件(5月)• フランコ、ビルバオ占領(6月)• 人民戦線、政府をバルセロナへ移転(10月末)• 大日本帝国がフランコ政権を承認 12月• (12月から翌年2月) 1938年 [ ]• フランコ、ブルゴスで内閣樹立(1月末)• フランコが地中海岸に到達、人民戦線側は南北に分断(4月)• (5月)• ()(7月)• 国際旅団の解散(10月) 1939年 [ ]• フランコ、バルセロナ占領(1月)• イギリス、フランスがフランコ政府を承認(2月)• フランコ、に参加(3月)• フランコ、マドリード占領(3月)• フランコによる内戦終結宣言(4月)• アメリカ合衆国がフランコ政府を承認(5月)• 勃発(9月) スペイン内戦を題材とした作品 [ ] 関連カテゴリ -• 『』()• 『』()• 『』()• 『狼たちの月』() - 内戦中、そして内戦後にもおよぶ、共和国軍敗残兵の若者と村人たちの姿を描く。 『サラミスの兵士たち』() - 共和国側の集団銃殺から逃れたファランヘ党小説家のエピソードをきっかけに、戦った兵士たちの真実に迫る。 『さらばカタロニア戦線』() - イギリス情報部の依頼で国際旅団に潜入した元警官の青年の視点で、マルローやヘミングウェイが描かなかった共和国軍側の凄惨な内部抗争を描いている。 の小説『』や、の小説『』の主人公は、最後にスペイン内戦にフランコの反乱軍側のファランヘ党の義勇兵として参加していく。 『』 - ヘミングウェイの小説に基づく1943年のアメリカ映画。 、主演。 『』 - 1955年の西ドイツ映画。 を行ったとされるドイツ義勇軍「」の若者たちの青春群像を描いた。 『』 - 1964年のアメリカ映画。 の同名小説を『』のが脚色、『』のが製作・演出。 『』 - 1965年のフランス映画。 『』 - 1973年のスペイン映画。 『』 - 1975年のソ連映画。 『』 - 1990年のスペイン映画。 『』 - 1992年のスペイン映画。 『』 - 1995年、イギリス・スペイン・ドイツ合作映画。 フランコ派だけでなく左翼勢力間の争いを描くなど、共産党にも批判的で無政府主義者陣営には同情的な視線から描かれている。 『』 - 1999年のスペイン映画。 マヌエル・リバスの同名小説の映画化。 『』 - 2006年のメキシコ・スペイン・アメリカ合作映画。 『』 - 2012年の制作のアメリカ合衆国のテレビ映画。 ヘミングウェイと彼の3番目の妻となった戦時特派員 ()との恋愛を スペイン内戦やを背景に描いた作品。 『』()• は『』など、前線でのショットを世界に報道、従軍写真家としての地歩を築く。 『』 - ・主演。 『』 - 2006年公演。 ・主演。 脚注 [ ]• 福井義高『日本人が知らない最先端の世界史2』PHP研究所2017年、p. 125• 福井義高『日本人が知らない最先端の世界史2』PHP研究所2017年、pp. 110-111• 福井義高『日本人が知らない最先端の世界史2』PHP研究所2017年、pp. 103-105• 福井義高『日本人が知らない最先端の世界史2』PHP研究所2017年、p. 108• ただし1937年には人民戦線側にを売却するなど、明確にフランコ側だったわけではない。 バーネット・ボロテン『スペイン内戦 革命と反革命』上巻、p227• ボロテン、同書上巻、p239• 三野 正洋「スペイン戦争」 参考文献 [ ]• 『』 (著) スペイン内戦においてイギリス左翼の人脈から、反スターリン主義マルクス主義政党 POUM の民兵組織に参加したジョージ・オーウェルによる。 『スペイン内戦 革命と反革命』上・下 バーネット・ボロテン(著)、渡利三郎(訳) 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - 記録されているただ一人の日本人義勇兵。 北海道出身。 アメリカで募兵に参加。 青山のに銘がある。 - ザ・クラッシュの楽曲•

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