種 を まく 人 あらすじ。 映画『種をまく人』公式サイト

「種を蒔く人」のたとえ

種 を まく 人 あらすじ

2017 年 10 月 8 日 花巻教会 主日礼拝説教 聖書箇所:マタイによる福音書 13 章 1 - 23 節 「「種を蒔く人」のたとえ」 マタイによる福音書 13 章 1 - 23 節《 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。 /すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。 群衆は皆岸辺に立っていた。 /イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 /蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。 /ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 /しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 /ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。 /ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。 /耳のある者は聞きなさい。 」/ 弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。 /イエスはお答えになった。 「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。 /持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。 /だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。 見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。 /イザヤの預言は、彼らによって実現した。 『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。 /この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。 こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。 わたしは彼らをいやさない。 』/しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。 あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。 /はっきり言っておく。 多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。 」/ 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。 /だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。 道端に蒔かれたものとは、こういう人である。 /石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、/自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。 /茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。 /良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。 」 》 ミレーの「種を蒔く人」 本日はご一緒にイエス・キリストが語られた「たとえ話」に耳を傾けてみたいと思います。 新共同訳聖書では《「種を蒔く人」のたとえ》とタイトルが付されています。 はじめに、イメージを膨らませていただくために、一枚の絵をご覧いただきたいと思います。 ミレーの「」 ( 1850 年頃) の絵です。 とても有名な絵ですね。 ほぼ同じ構図のものが一枚はボストン美術館、一枚は山梨県立美術館に所蔵されています。 絵の中の男性は、肩から、種がずっしりと入った種袋をぶらさげています。 男性はその種袋から右手で種を取り出し、それを畑に振りまいています。 前をまっすぐ見つめ、右足を力強く前を踏み出しながら、思い切りよく種を蒔いている様子が印象的です。 この種の蒔き方というのは、私たち日本に住む者の種蒔きのイメージとは異なっているものですね。 種まきというと、土の中に一粒ずつ、もしくは数粒ずつ植えてゆくというイメージをもっている方が多いかと思いかもしれませんが、ここで描かれているのはたがやした畑にたくさんの種をふりまいてゆくやり方です。 本日のイエス・キリストの「種を蒔く人」のたとえ話でイメージされているのも、このような種蒔きの様子であるようです。 もしかしたら、ミレーもこのたとえ話を思い浮かべながら、この絵を描いたのかもしれません。 「種を蒔く人」のたとえ この種蒔きの仕方を踏まえますと、本日のたとえ話において、道端や、石だらけの所や、茨の間に落ちる種がある、ということも理解できます。 多くの種はたがやされた土の上に落ちますが、少量の種は、種まく人の意図に反して、道端に落ちることがあったであろうからです。 改めてたとえ話の部分を読んでみましょう。 マタイによる福音書 13 章 3 - 9 節《 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 /蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。 /ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 /しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 /ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。 /ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。 /耳のある者は聞きなさい。 」 》。 このたとえ話では、道端に落ちた種はすぐに鳥に食べられてしまった、と語られています。 次に、石だらけで土の少ない所に落ちた種は芽は出しますが、根がないために枯れてしまった。 次に、茨の間に落ちた種は、芽を出して成長はしますが、茨に妨げられ実を結ぶことができなかった。 最後に、「良い土地」に落ちた種は実を結び、百倍、六十倍、三十倍にもなったと語られています。 「良い土地」とは、よく耕された、養分と水分をたっぷり含んでいる土地がイメージされているのでしょう。 ちょうどいま私たちの住むこの岩手でも、稲が実って、田んぼが黄金色に輝いていますね。 たとえ話の解説 主イエスはたとえ話を語られる時、あえて答えはおっしゃらず、聴く者に自分で考えるように促されることが多いのですが、本日のたとえ話には珍しく解説が付されています ( 18 - 23 節)。 このたとえ話において、種とは、「言葉」であると言われています。 神さまのメッセージを伝える「言葉」です。 では、種が蒔かれる土地とは何でしょうか。 それは、私たちの「心」であると言われています。 種蒔きにおいて蒔かれる種とは神さまの言葉であり、それを受け止める土地は私たちの心の在りようであると解説されています。 「道端」とは、神さまの言葉が蒔かれても、それを受けとめない私たちの心の在りようを示しています。 道端に落ちた種がすぐに鳥に食べられてしまうように、私たちの心が御言葉を拒否したままでいるので、外から悪い存在が来て、簡単に奪い取られてしまうというのですね。 「石だらけの所」もやはり、私たちの心の在りようを示しています。 石だらけで土の少ない所に落ちた種は芽は出しますが、根を張ることができず、枯れてしまいます。 それと同様に、私たちも神さまの言葉を喜んで受け入れたとしても、その言葉が心の中に根付いていないなら、困難が起こったときにその言葉を見失ってしまう、ということが語られています。 「茨の中」はどうでしょうか。 茨の中に落ちた種は芽を出し成長はしますが、茨にさえぎられて、身を結ぶまでには至らない。 それと同様に、御言葉を受け入れても、私たちの心が思い煩いや誘惑に覆いふさがれているとしたら、その御言葉は実を結ぶに至らないと語られています。 最後の「良い土地」もやはり、私たちの心の在りようを表しているわけですが、それは、《御言葉を聴いて悟る》心であると語られています。 私たちの心が御言葉を聴いて悟るのならば、百倍、六十倍、三十倍もの実を結ぶのだ、と。 一面、黄金色の輝く麦畑のように。 実を結ぶ、というのは、その言葉が実際に行為として、生き方として、現実として結実してゆく、ということを意味しています。 《良い土地》 ~「人の痛みが分かる心」 豊かに実を結ばせる《良い土地》とは、一体どのような私たちの心の在りようを指し示しているのでしょうか。 神さまの言葉を受け入れ、それを根付かせ、実を結ばせる心とは、どのようなものなのでしょうか。 さまざまな解釈ができるかと思いますが、本日は、この《良い土地》を、「人の痛みが分かる心」と受け止めてみたいと思います。 人の痛みを「我がこと」として感じる柔らかな心に、神さまの言葉は届き、根を張り、豊かに実を結んでゆくのだ、と受け止めたいと思います。 本日の聖書箇所のたとえ話とその解説の間に、主イエスによる警鐘の言葉が挿入されています ( 10 - 17 節)。 14 - 15 節《 あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。 /この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。 こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。 わたしは彼らをいやさない 》。 主イエスは旧約聖書のイザヤ書の言葉 (イザヤ書 6 章 9 - 10 節) を引用しながら、当時の一部の人々を批判なさっています。 《この民の心は鈍り…》とありますが、これは他者の痛みに対して鈍感になっている私たちの心の在りようが指し示されているのだ、と本日は受け止めたいと思います。 または、一時的に受け入れても、本当には根付かないままになってしまうのではないでしょうか。 また、言葉を聞いたままで終わって、実際の行動には結びつかないままになってしまうのではないでしょうか。 自分が経験したことのない痛みを理解することは私たちには難しいということもあります。 そのような私たちの率直な姿を見つめつつ、しかし、私たちは人の痛みを「理解しようとし続けること」はできると思います。 そして、その痛みと「共に立とうとすること」はできるでしょう。 カトリックのフランシスコ会の本田哲郎神父は最後の 23 節をこのように訳しています。 《『適した地』にまかれたとは、そのできごとを耳にして、心に感じてともに立つ人のことである》。 主イエスはまさに、人々の痛みを我がことのように感じ、その痛みと共に立ってくださった方でした。 社会から見えなくされている、しかし確かに存在している無数の痛み。 その痛みをご自身の痛みとしてくださり、共に負ってくださったのがイエス・キリストその方です。 福音書に記録されている主イエスの言葉は、この「憐れみ」の心から発されたものです。 かつてイザヤはこの主のお姿を預言し、《 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。 … 》 (イザヤ書 53 章 3 節) と語りました。 私たちがいま生きている社会もまた、無数の痛みで満ちています。 多数の都合や利益によっても一部の人々に負わされている痛みがあります。 その心こそが、神さまの言葉を受け入れる《良い土地》として用いられてゆくのだと信じています。 私たちが互いの痛みを「我がこと」として理解しようとするとき、たとえ困難があっても神さまの言葉は失われることなく、私たちの心により深く根付いてゆくでしょう。 神さまの言葉は、私たちの行動や実際の生き方と、より密接に結びついてゆくことでしょう。 私たちの頑なな心が主の憐れみにより、再び柔らかなものとなりますように。 私たちが互いの痛みを理解し合い、共に歩んでゆくことができますようにと願います。

次の

『種まく人』(若松英輔)の感想(6レビュー)

種 を まく 人 あらすじ

「種を蒔く人」のたとえ 私達は普通、何かを強調したいとき、その事柄について何度も繰り返します。 同様に、聖書の御言葉は全て重要ですが、何かが二回以上繰り返されている場合は、明らかにそれは特に重要なことであり、特別な注意を払うべきです。 何度も繰り返されている聖句の一つに、「種を蒔く人」のたとえがあります。 実に、イエス・キリストの生涯について記録された4つの福音書を見ると、このたとえは3度繰り返されています。 ですから、このたとえを吟味し、それを通して神が私達に教えようとなさっている特別に重要なこととは何か見ていきましょう。 たとえ 「種を蒔く人」のたとえは、マタイによる福音書第13章1節から8節、マルコによる福音書第4章1節から9節、そしてルカによる福音書第8章4節から8節に記録されています。 出発点としてルカによる記録を取り上げて、読んでみましょう。 ルカによる福音書第8章4節から8節 「大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。 『種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。 ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。 ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。 また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。 』イエスはこのように話して、『聞く耳のある者は聞きなさい』と大声で言われた」 イエスがこのたとえを話されることにしたのは、偶然ではありません。 実に、4節が告げている通り、「 大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスは[群衆がそばに来たのを見て] たとえを用いてお話しになった」のです。 イエスは、大勢の人々が神の御言葉を聞くためにそばに来た時に、このたとえを話されました。 これから見ていきますが、このたとえは御言葉を聞くことについての話しです。 ですからイエスは、このたとえを話すことで、御言葉を聞くためにイエスのそばに来た人々に、どのような選択肢があるのか気付かせたかったのです。 「道端」 上記のルカの聖句を見ると、このたとえは4種類の違った土地に落ちた種について述べていて、最初は「道端」でした。 ルカによる福音書第8章5節が語っている通りです。 ルカによる福音書第8章5節 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 蒔いている間に、 ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった」 種を蒔く人が蒔いた種のうちのいくつかは「道端」に落ちました。 それで、その種は芽も出さず実をつけることもなく、人に踏みつけられ、鳥に食べられてしまいました。 後の節に、この部分についての説明があります。 ルカによる福音書第8章11節から12節を読みましょう。 ルカによる福音書第8章11節から12節 「このたとえの意味はこうである。 種は神の言葉である。 道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである」 また、マタイによる福音書第13章19節にも同じ部分の説明があります。 「だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。 道端に蒔かれたものとは、こういう人である」 上記の聖句によると、蒔かれた 種とは神の言葉または「御国の言葉」です。 しかしながら、この言葉は、蒔かれたどの場所でも同じ結果をもたらすわけではありません。 その実りは、どの土地に落ちたかによって左右されるからです。 その土地のひとつは「道端」の土地で、イエスの説明によれば、それは御言葉を聞いても「悟らない」人々のことです。 「悟らない」とはどういうことなのか、後出の聖句で説明されます。 実に、上記の聖句で「悟る」と訳されているギリシャ語は「suniemi 」という動詞で、マタイの福音書第13章では6回使われており、そのうちの5回はこのたとえの中にあります。 マタイによる福音書第13章13節から15 節は語っています。 マタイによる福音書第13章13節から15 節 「・・・見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである[ギリシャ語:suniemi]。 イザヤの預言は、彼ら[見ても見ず、聞いても理解できない者]によって実現した。 『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず[ギリシャ語:suniemi]、見るには見るが、決して認めない。 この民の心は鈍り[これが、彼らが聞いても理解しない理由]、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。 こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、 心で理解[ギリシャ語:suniemi] せず、悔い改めない。 わたしは彼らをいやさない。 』」 人は耳で御言葉を聞き、心(の奥底 )で「理解」します。 ですから、「種を蒔く人」のたとえが意味するのは、単なる観念的な理解ではありません。 それはむしろ悟ること、心の底から御言葉を受け入れることです。 ですから、御言葉の種を蒔いた結果は、蒔いた土地、つまり御言葉を聞いた人の心によって違ってくるのです。 違う種類の土地、すなわち性質の違う心に落ちた同じ種は、違う結果をもたらします。 心が硬ければ、御言葉の種は道端に落ちたようになるでしょう。 種は芽を出すことも、実を結ぶこともありません。 コリントの信徒への手紙二第4章3節から4節とエフェソの信徒への手紙第4章17節から19節が語る通りです。 コリントの信徒への手紙二第4章3節4節 「わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、 滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。 この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです」 エフェソの信徒への手紙第4章17節から19節 「そこで、わたしは主によって強く勧めます。 もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。 彼らは愚かな考えに従って歩み、 知性は暗くなり、彼らの中にある無知と その心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。 そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません」 ある人々には、 神の御言葉に覆いが掛かり、理解することが出来ません。 それは御言葉が理解しがたいほど難しいのではなく、その人達の心が硬く固まっていて、御言葉の種が育たないのです。 上記のエフェソの信徒への手紙の聖句で「かたくなさ」と訳されたギリシャ語に注目してみると、これは「porosis」という言葉で「無感覚、硬結」という意味です。 これはマルコによる福音書第3章5 節で、イエスをひどく迫害したグループ、パリサイ人の心を表した言葉です。 マルコによる福音書第3章5 節 「そこで、イエスは怒って人々[パリサイ人(マルコによる福音書第2章24節参照)]を見回し、彼らのかたくなな[ギリシャ語porosis-無関心、硬結]心を悲しみながら・・・」 パリサイ人は神の子イエス・キリストを目の前で見ていました!! 彼らは、偉大な師であり、地球上に現れた最も偉大な人物に会って教えを聞きました。 けれども彼らはイエスを信じませんでした。 何故でしょう? 彼らの心はかたくな、つまりとても固く、それ故に御言葉の種を植えて育つのには適さなかったのです。 種である御言葉に問題があったのではなく、土地であるパリサイ人の心が硬かったのです。 「石だらけで土の少ない所」 御言葉の種が落ちた最初の土地を検証しましたので、つぎに二番目の土地へと話題を移しましょう。 マタイによる福音書第13章5節から6 節にはこう書かれています。 マタイによる福音書第13章5節から6 節 「ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった」 種は様々な種類の土地で芽を出します。 しかし、その全てが枯れずに実をつけるわけではありません。 ある土地では、種はすぐに芽を出しますが、結局は枯れてしまいます。 それは石だらけの土地です。 種が枯れてしまうのは、石があるために、根が必要な水分を得られるほどの深さに到達しないからです。 それで、風が吹けばたちまちしおれてしまいます。 マルコによる福音書で、このたとえの同じ部分を読んでみましょう。 マルコによる福音書第4章16節から17節 「石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。 御言葉を聞くと すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、 しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、 すぐにつまずいてしまう」 石だらけの土地とは、御言葉を聞いて、実に喜びを持ってすぐに受け入れる人々のことであることがわかります。 しかしながら、それは長続きせず、このような人々は、艱難や迫害が起こると、これまたすぐにつまずいてしまいます。 明らかに、彼らをつまずかせた問題とは、彼らが艱難や迫害にとても弱いということです。 ですから、悪魔がそのようなものをもたらすと、すぐにつまずいてしまうのです。 彼らがつまずくのは、艱難が耐えられないほどにひどいからではありません。 コリントの信徒への手紙二第4章17節、コリントの信徒への手紙一第10章12節から13節、そしてペトロの手紙一第5章10節が告げている通り、艱難は軽く、耐えられないようなものではありません(コリントの信徒への手紙一第10章12節から13節)。 つまずきの原因は、彼らが悪魔に少しも抵抗しようとしていないからです(聖句にある通り、彼らはすぐにつまずいてしまいます)。 ヤコブの手紙第4章7 節が語っている通りです。 ヤコブの手紙第4章7 節 「だから、神に服従し、悪魔に 反抗しなさい。 そうすれば、悪魔は[反抗した結果として]あなたがたから逃げていきます また、 ペトロの手紙一第5章8節から9節 は語ります。 「身を慎んで目を覚ましていなさい。 あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。 信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。 あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。 それはあなたがたも知っているとおりです」 もし私達が悪魔に抵抗しなければ、悪魔は逃げていきません。 反対に、抵抗しない者を食い尽くします。 この悪魔の餌食となり得るのは、第二番目の土地に属する人々です。 悪魔が来て艱難をもたらすと、すぐにつまずき、悪魔の餌食となってしまいます。 彼らははじめは良くても、残念なことに悪い結末を迎えます。 第三番目の種類 御言葉を聞く人について、二つの種類を考察してきましたが、次に第三の種類へと移りましょう。 マルコによる福音書第4章7節は語っています。 マルコによる福音書第4章7節 「ほかの種は茨の中に落ちた。 すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった」 種が落ちた 第三番目の土地は茨 のある所でした。 この土地に落ちた種はふさがれてしまい、実を結びませんでした。 このたとえを理解するために、マルコによる福音書第4章18節から19節を読みましょう。 「また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。 この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない」 残念ながら、この種類の人達もまた問題をはらんでいます。 ここでの問題は、御言葉とともに、「この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望」が心に入り込んでいることです。 こうした物は、御言葉に対して茨のように働き、御言葉をふさぎ実を結ばせません。 この種類の人達がすることに対して、イエスは言われました。 マタイによる福音書第6章25節から34節 「だから、言っておく。 自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。 空の鳥をよく見なさい。 種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。 だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。 あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。 野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。 働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、言っておく。 栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。 まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。 あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。 そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 だから、明日のことまで思い悩むな。 明日のことは明日自らが思い悩む。 その日の苦労は、その日だけで十分である」 何よりもまず神の国と神の義を、 それからこれらのものを。 もし私達がこの原理を適用すれば、他のものはみな加えて与えられるのです。 しかし、それを適用せずに思い煩いや他のものが優先されていたら、これらが御言葉を覆いふさいで、実を結ばなくなるでしょう。 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が持つ脅威は非常に深刻です。 「」の記事で、また別に考えましょう。 「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち」 今まで、御言葉の種が落ちた三種類の土地を検証してきました。 残念なことに、どの土地でも種は実を結びませんでした。 最初の土地、「道端」は、硬すぎて種は芽を出すこともできませんでした。 第二の土地もまた石だらけで、種が根付くことができませんでした。 最後に、第三の土地は茨があり、種をふさいだので実を結びませんでした。 実りのない三種類の土地を見てきましたが、今から、実を結ぶ良い土地は何かを見ていきましょう。 マタイによる福音書第13章8 節がそのことを説明しています。 マタイによる福音書第13章8 節 「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」 そして、 これはマタイによる福音書第13章23節による説明です。 「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る[ギリシャ語:suniemi]人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」 今回、種は道端や石だらけの土地、または茨の中ではなく、良い土地に、つまり御言葉を聞いて悟る[ギリシャ語:suniemi]人の心に落ちました。 ルカによる福音書第8章15節で、この「悟る」ということを説明しています。 ルカによる福音書第8章15節 「良い土地に落ちたのは、 立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」 覚えているでしょうが、前出の種類は、心がかたくなに固まっていて、御言葉を「悟る」ことも受け入れることもできない人たちです。 対照的に、実を結ぶ種類の人たちは、 立派な善い心で御言葉を聞き 悟ります。 この実りのある種類に属する人たちは、他の実りのない三種類に欠けていたものを全て備えています。 ですから、最初の種類の人たちは心がかたくなでしたが、ここでは心が 立派で善いのです。 また第二の種類では、人々は忍耐がなく艱難があるとすぐにつまずきましたが、ここでは忍耐があり(聖句の通り、彼らは「 忍耐して実を結」びます)、あきらめません。 第三の種類では、この世の思い煩いや、いろいろな欲望が優先されたために、御言葉がふさがれましたが、ここでは、御言葉はよく守られ、他のものが先行することはありません。 これが実を結ぶ種類です。 そして、ヨハネによる福音書第15章の中でキリストはこう言われます。 ヨハネによる福音書第15章1節から2節、4節から5節、8節、16節 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。 しかし、 実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる・・・わたしにつながっていなさい。 わたしもあなたがたにつながっている。 ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、 わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。 人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。 わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである・・・ あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、 それによって、わたしの父は栄光をお受けになる・・・ あなたがたがわたしを選んだのではない。 わたしがあなたがたを選んだ。 あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」 神は実を結ぶ全ての枝を手入れされて、いよいよ豊かに実を結ぶようになさいます。 枝がいよいよ豊かに実を結べば、神はいよいよ豊かに栄光をお受けになります。 結論 結論として、神の御言葉は様々な種類の人々に語られます。 しかしながら、御言葉を聞いた人の心の性質によって、その結果は違ってきます。 ある人は御言葉を拒絶し、またある人は艱難が起こるまでは御言葉を受け入れ、ある人は御言葉を受け入れますが、結果的には他のこと(思い煩いや富、その他いろいろな欲望)が御言葉よりも優ってしまい、そして、ある人は立派な善い心で御言葉を守り、豊かに実を結びます。 ですからイエスは、たとえの説明をしめくくって「 どう聞くべきかに注意しなさい」と言われました(ルカによる福音書第8章18節)。 御言葉を聞くだけでなく、 どう聞くかが重要です。 多くの人が御言葉を聞きますが、御言葉を聞き、それを立派な善い心で守る人だけが、実を結ぶからです。 私達がこの種類の者となり、そうあり続けることができますように。

次の

種をまく人 : 作品情報

種 を まく 人 あらすじ

2017 年 10 月 8 日 花巻教会 主日礼拝説教 聖書箇所:マタイによる福音書 13 章 1 - 23 節 「「種を蒔く人」のたとえ」 マタイによる福音書 13 章 1 - 23 節《 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。 /すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。 群衆は皆岸辺に立っていた。 /イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 /蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。 /ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 /しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 /ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。 /ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。 /耳のある者は聞きなさい。 」/ 弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。 /イエスはお答えになった。 「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。 /持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。 /だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。 見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。 /イザヤの預言は、彼らによって実現した。 『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。 /この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。 こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。 わたしは彼らをいやさない。 』/しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。 あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。 /はっきり言っておく。 多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。 」/ 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。 /だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。 道端に蒔かれたものとは、こういう人である。 /石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、/自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。 /茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。 /良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。 」 》 ミレーの「種を蒔く人」 本日はご一緒にイエス・キリストが語られた「たとえ話」に耳を傾けてみたいと思います。 新共同訳聖書では《「種を蒔く人」のたとえ》とタイトルが付されています。 はじめに、イメージを膨らませていただくために、一枚の絵をご覧いただきたいと思います。 ミレーの「」 ( 1850 年頃) の絵です。 とても有名な絵ですね。 ほぼ同じ構図のものが一枚はボストン美術館、一枚は山梨県立美術館に所蔵されています。 絵の中の男性は、肩から、種がずっしりと入った種袋をぶらさげています。 男性はその種袋から右手で種を取り出し、それを畑に振りまいています。 前をまっすぐ見つめ、右足を力強く前を踏み出しながら、思い切りよく種を蒔いている様子が印象的です。 この種の蒔き方というのは、私たち日本に住む者の種蒔きのイメージとは異なっているものですね。 種まきというと、土の中に一粒ずつ、もしくは数粒ずつ植えてゆくというイメージをもっている方が多いかと思いかもしれませんが、ここで描かれているのはたがやした畑にたくさんの種をふりまいてゆくやり方です。 本日のイエス・キリストの「種を蒔く人」のたとえ話でイメージされているのも、このような種蒔きの様子であるようです。 もしかしたら、ミレーもこのたとえ話を思い浮かべながら、この絵を描いたのかもしれません。 「種を蒔く人」のたとえ この種蒔きの仕方を踏まえますと、本日のたとえ話において、道端や、石だらけの所や、茨の間に落ちる種がある、ということも理解できます。 多くの種はたがやされた土の上に落ちますが、少量の種は、種まく人の意図に反して、道端に落ちることがあったであろうからです。 改めてたとえ話の部分を読んでみましょう。 マタイによる福音書 13 章 3 - 9 節《 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 /蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。 /ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 /しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 /ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。 /ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。 /耳のある者は聞きなさい。 」 》。 このたとえ話では、道端に落ちた種はすぐに鳥に食べられてしまった、と語られています。 次に、石だらけで土の少ない所に落ちた種は芽は出しますが、根がないために枯れてしまった。 次に、茨の間に落ちた種は、芽を出して成長はしますが、茨に妨げられ実を結ぶことができなかった。 最後に、「良い土地」に落ちた種は実を結び、百倍、六十倍、三十倍にもなったと語られています。 「良い土地」とは、よく耕された、養分と水分をたっぷり含んでいる土地がイメージされているのでしょう。 ちょうどいま私たちの住むこの岩手でも、稲が実って、田んぼが黄金色に輝いていますね。 たとえ話の解説 主イエスはたとえ話を語られる時、あえて答えはおっしゃらず、聴く者に自分で考えるように促されることが多いのですが、本日のたとえ話には珍しく解説が付されています ( 18 - 23 節)。 このたとえ話において、種とは、「言葉」であると言われています。 神さまのメッセージを伝える「言葉」です。 では、種が蒔かれる土地とは何でしょうか。 それは、私たちの「心」であると言われています。 種蒔きにおいて蒔かれる種とは神さまの言葉であり、それを受け止める土地は私たちの心の在りようであると解説されています。 「道端」とは、神さまの言葉が蒔かれても、それを受けとめない私たちの心の在りようを示しています。 道端に落ちた種がすぐに鳥に食べられてしまうように、私たちの心が御言葉を拒否したままでいるので、外から悪い存在が来て、簡単に奪い取られてしまうというのですね。 「石だらけの所」もやはり、私たちの心の在りようを示しています。 石だらけで土の少ない所に落ちた種は芽は出しますが、根を張ることができず、枯れてしまいます。 それと同様に、私たちも神さまの言葉を喜んで受け入れたとしても、その言葉が心の中に根付いていないなら、困難が起こったときにその言葉を見失ってしまう、ということが語られています。 「茨の中」はどうでしょうか。 茨の中に落ちた種は芽を出し成長はしますが、茨にさえぎられて、身を結ぶまでには至らない。 それと同様に、御言葉を受け入れても、私たちの心が思い煩いや誘惑に覆いふさがれているとしたら、その御言葉は実を結ぶに至らないと語られています。 最後の「良い土地」もやはり、私たちの心の在りようを表しているわけですが、それは、《御言葉を聴いて悟る》心であると語られています。 私たちの心が御言葉を聴いて悟るのならば、百倍、六十倍、三十倍もの実を結ぶのだ、と。 一面、黄金色の輝く麦畑のように。 実を結ぶ、というのは、その言葉が実際に行為として、生き方として、現実として結実してゆく、ということを意味しています。 《良い土地》 ~「人の痛みが分かる心」 豊かに実を結ばせる《良い土地》とは、一体どのような私たちの心の在りようを指し示しているのでしょうか。 神さまの言葉を受け入れ、それを根付かせ、実を結ばせる心とは、どのようなものなのでしょうか。 さまざまな解釈ができるかと思いますが、本日は、この《良い土地》を、「人の痛みが分かる心」と受け止めてみたいと思います。 人の痛みを「我がこと」として感じる柔らかな心に、神さまの言葉は届き、根を張り、豊かに実を結んでゆくのだ、と受け止めたいと思います。 本日の聖書箇所のたとえ話とその解説の間に、主イエスによる警鐘の言葉が挿入されています ( 10 - 17 節)。 14 - 15 節《 あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。 /この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。 こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。 わたしは彼らをいやさない 》。 主イエスは旧約聖書のイザヤ書の言葉 (イザヤ書 6 章 9 - 10 節) を引用しながら、当時の一部の人々を批判なさっています。 《この民の心は鈍り…》とありますが、これは他者の痛みに対して鈍感になっている私たちの心の在りようが指し示されているのだ、と本日は受け止めたいと思います。 または、一時的に受け入れても、本当には根付かないままになってしまうのではないでしょうか。 また、言葉を聞いたままで終わって、実際の行動には結びつかないままになってしまうのではないでしょうか。 自分が経験したことのない痛みを理解することは私たちには難しいということもあります。 そのような私たちの率直な姿を見つめつつ、しかし、私たちは人の痛みを「理解しようとし続けること」はできると思います。 そして、その痛みと「共に立とうとすること」はできるでしょう。 カトリックのフランシスコ会の本田哲郎神父は最後の 23 節をこのように訳しています。 《『適した地』にまかれたとは、そのできごとを耳にして、心に感じてともに立つ人のことである》。 主イエスはまさに、人々の痛みを我がことのように感じ、その痛みと共に立ってくださった方でした。 社会から見えなくされている、しかし確かに存在している無数の痛み。 その痛みをご自身の痛みとしてくださり、共に負ってくださったのがイエス・キリストその方です。 福音書に記録されている主イエスの言葉は、この「憐れみ」の心から発されたものです。 かつてイザヤはこの主のお姿を預言し、《 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。 … 》 (イザヤ書 53 章 3 節) と語りました。 私たちがいま生きている社会もまた、無数の痛みで満ちています。 多数の都合や利益によっても一部の人々に負わされている痛みがあります。 その心こそが、神さまの言葉を受け入れる《良い土地》として用いられてゆくのだと信じています。 私たちが互いの痛みを「我がこと」として理解しようとするとき、たとえ困難があっても神さまの言葉は失われることなく、私たちの心により深く根付いてゆくでしょう。 神さまの言葉は、私たちの行動や実際の生き方と、より密接に結びついてゆくことでしょう。 私たちの頑なな心が主の憐れみにより、再び柔らかなものとなりますように。 私たちが互いの痛みを理解し合い、共に歩んでゆくことができますようにと願います。

次の